2014年5月、大分市中央町に誕生したカモシカ書店。
古本を中心としながら新刊も取り扱い、カフェとしても気軽に利用できる癒しの場。
手作りケーキやこだわりのコーヒー、水曜日のネコというフルーティースパイシーな珍しいビールもお楽しみ頂けます。
定期的に本だけに留まらない知的好奇心を刺激するイベントを開催。
そんなカモシカ書店の店主、岩尾晋作くんのコラム第十六話です。
オムニバス的に一冊の本を紹介していく人生の短編集。
どうぞ、お楽しみください!
なお、紹介されている本は実際にカモシカ書店で購入することができます。
※すでに売切れや非売品の場合もありますので、ご来店前にカモシカ書店へお問い合わせください。
第十六話「歩くベンジャミン」吉原恒太
「カモ空」を書くのは実に久しぶりである。
「書く」というのは書かれる対象に魔法をかけることなんじゃないかなぁ、と最近よく思う。
誰かに書かれたものは、書かれる前とは完全に別の様相を帯びて、新しく存在し始めるのだと思う。
本屋をしているからというわけではないが私は本を読むのが好きだ。
本を読むのが好きだということはつまり書かれた対象に思いを巡らせるのが好きだということだ。
では書くことが好きかというと、まあ好きなのだが、状況による場合が多い。
書くのが好き、ということは書こうと思う対象に、誰かに思いを巡らせてほしいとき、と考えられる。
人に知られていない何かの価値に気がついた時や、自分自身に人にまだ知られていない価値があると思える時、人はいいものを書くのだろう。
多少、話がずれるがこの「カモ空」は実は毎月書く約束をしていて、その実、ここ数か月全然書いていなかったのである。
私は書くというと、原稿用紙に万年筆で書く、というのを基本に考えるタイプの人間で、今やっているようにパソコンに向かって書くということはあまりしっくりこないのである。
しかしパソコンは早くて便利なので、なんとかここをしっくりさせることはできないものかと思案した結果、タッチタイピングができるようになれば良いのだと思いあたった。
タッチタイピングができるようになったらきっとカモ空もサボらずに書くのではないか。
そんな希望を胸に今この原稿をタッチタイピングで書いている。
タッチタイピングの感覚は不思議だ。
この感触は初めてスノーボーディングをした時に似ている。
私は初めてのスノーボーディングで尾てい骨が砕けるのではないかと心配するほど幾度となくこけた。
タッチタイピングも何度も何度も間違うだろう。
ところでキーボード配列の母音の設置場所には大変疑問を感じる。
あいうえお、が左手の小指、右手に移って中指、人差し指、また左に戻って中指、次は右で薬指、という寝起きの頭の体操みたいになっているのはどういうことだろうか。
QWERTキーボードの起源など調べたらすぐにわかるのだろうが、日本語を打つにおいてはなんとも奇怪な運指である。
まあしかたない。
さっさと習得して私は毎月「カモ空」を書こう。
前回の「カモ空」から今日までを振り返ってみると、きっと誰もがそうであるように私にもいろいろなことがあった。
鶴丸礼子さんと仲良くなったことや、松浦弥太郎さんが来店してくれたことや、カモシカの成長のことなんかもそれぞれ「カモ空」一本分にはなるのでいつか書きたいと思うのだが、今回は私より年下の人たちについて書きたいと思った。
カモシカには最近20歳前後の男女が通うようにやってくるようになって、彼らと接するのがとても、楽しいというか、嬉しい。
客層が広がっているのが実感できるからとかそういうことよりも、20代にしか伸ばせないもの、出会えないものというのは間違いなくあって、そういう瞬間のひと欠片に立ち会えているという感覚にはとてもプレミアム感があるからだと思う。
私自身の20歳前後を振り返ってみると、普段はうまく思い出せないのだが、彼らと話していると久しぶりに部活をするように頭が反射して、蘇ってくる記憶がある。
自分の若いころを愚かだったと貶めるのは実にイージーだが、なんだかそれは誠実さに欠けるというか、精密さに欠けるように思う。
彼らと接して感じるほどには私も賢かったし同じように悩んでいたし迷っていたし求めていたし、無知であったし傲慢だった。
このように考えるほうが自然で正確だと思う。
(ここまで書いて、肩が凝った。とりあえず締め切りが迫っているのでタッチタイピングをここでやめることを告白しておく。)
若い頃は苦しかった、なんていうと当たり前だが、私自身いちばん最初に苦しんだ経験は、ちょっと珍しいと思うのだが小学校高学年のときだ。
ふと、急に、巨大な不安に包まれて舌が痺れるような感覚とともに、なんで生きているのかわからなくなった。
自分が影響したあらゆることが急に不安になり、存在していること自体に強い罪悪感のようなものを感じるようになった。
このころはいわゆるチックと呼ばれる症状も出てきていて、自分はどこかおかしいのではないかと考えるようになった。
こんな話を思い出すこと自体久しぶりで自分でも驚くのだが、このころから小学校に行けなくなり、次に学校に通えるようになったときには中学2年生になっていた。
死にたいような気分の夜も多く、日が暮れるのがひたすら怖かったことも思い出した。
とにかく、この頃の経験と、この頃の自分を克服しようとしたこの後の経験によって私の90%はできているといえるのではないか。
自分にしかわからないかもしれない生き苦しさでいっぱいだった私は偶然、詩や文学の中に共感や救いがあることに気づき、それらを求めるようになった。
そして感じやすい文学青年として新しく甘受することになる社会の中での息苦しさで、私は旅や鍛錬で自分なりの処世術を身に付けようとした。
いま私は34歳だが、自分が持っていた性質や弱さと、それによって身に付ける必要が生じた強さ、を具体的に指し示すことができる。
自分の中の要素の配列を知っていて、これはここ、あれはここ、と肌感覚で語ることができる。
だからたぶんきっと、大人になるというのはタッチタイピングができるようになるようなことも含まれるのではないだろうか。
ちなみに余計なことかもしれないが書いておくと、私は文章ツンデレみたいなことは嫌いなのでそういうことをしないように気を付けている。
つまり、普段接したらツンツンしてるのに、日記や手紙や文章では実はやさしい、みたいなことはしたくない。
もっと言うと20歳前後の面白い人たちを、かわいいとは全く思わない。
そんなのは男の思うことではない。
もっと悩め、苦しめ。そう思う。
私は私の戦いをして、今のところいい手ごたえもあって、そしてまだまだ戦いの最中だ。
彼らよりゆうに10年時間があったのだが、どこまで来ているのかはよくわからない。
ただ、こういう苦しみがあった、こういう風に考えた、こういう風に強くなることはできるんじゃない?
そういうことは、訊かれたら応えることはできるだろう。
さて、前置きが長くなったが今回私が書きたいのは「歩くベンジャミン」という作品についてである。
この小説は24歳の利発な青年からある日カモシカで手渡され、素人の小説を読むのも嫌いではないので読んでみた、というのが出会いだった。
素人の小説というのは私も書いていたのである程度予想が着くのだが、はっきりいうと大概は私と同レベルか、それ以下である。
「歩くベンジャミン」もそのような予想のもとに読み始めた。
結論から言うと、この作品は、新人賞を取るかもしれない、と思った。
文体に破綻がなく、人物に強度があり、彼にとっての必然から生まれた作品なのだろう、ということがわかる。
一言でいうと「書く力」がある。推進力がある。はっきり言って(大した指標ではないのだが)私以上である。
内容は関係ないが、私はポランスキーの映画「水の中のナイフ」を思い出したがはっきり言ってそれよりも面白い。読んだ後、あなたはきっと、輝きについて知りたくなるだろう。
ベンジャミンは魔法をかける。
今私の周りにいる若者たちに魔法をかけて彼らはみんなベンジャミンになった。
タッチタイピングよりもまず何を書くべきかを考えて、すぐには動けなくなってしまう私の大好きなベンジャミンになった。
悩め、苦しめ、歩け、ベンジャミン。
私は君よりも10年長く生きたから、頑張ってタッチタイピングをしよう。
そして私のタイプする全ての言葉がいつも君の一歩一歩に共鳴するように、私はこれから書くだろう。
だから歩けベンジャミン。
歩き続けよ。
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