4月20日から始まった「ヤングセンターステンドグラス補完計画」のクラウドファンディング発起人であり、写真家としても数多くのアーティストの作品を手がける別府出身の東京神父さんに迫ります!
「ヤングセンターステンドグラス補完計画」とは?写真家になるキッカケ。東京神父を変えたモノと突き動かすモノ。気になる事聞いちゃいました!
──「ヤングセンターステンドグラス補完計画」とは?
鉄輪にヤングセンターという大衆演劇場があったんですけど、2020年に閉館してしまって。そのヤングセンターの温泉にすごく感動して、無くなるって聞いたときに「温泉を残したいな。」と思ったんですけど、さすがに大きいので。
せめてステンドグラスだけでも回収できないかな、と思ったのがキッカケです。よくよく後で知ったんですが、実はアクリルでできていて、本物のステンドグラスではないんですけど、逆にガラスだと重たいし回収できてなかったかもしれません。
女湯に4枚、男湯に9枚、合わせて13枚、これから大分県のいろんな場所に設置されていくんですけど、僕的にはそのステンドグラスありきで、そこに人が集まったときにまた何か新しい物語が生まれてくれたら嬉しいなって。
好きな人はどこどこにステンドグラスがあってそれを回遊してもらえたら面白いなとも思ってるので、回遊できるウェブサイトとかチラシを制作しようと思ってます。
4月20日からクラウドファンディングをスタートしたんですけど、回収費や設置費は引き取り先がほとんど出してくれているので、そこは少しでも足しになればいいなと。あとお金だけじゃなくて宣伝の意味合いが大きいのでステンドグラスのファンを作るとか、このプロジェクトを知ってもらうことの方が大事なので、ヤングということで890,000円に設定して挑戦しています。
ちょうどエヴァンゲリオン劇場版の使徒が13体なので「人類補完計画」にかけて「ヤングセンターステンドグラス補完計画」にしました。保全の保管じゃなくて補填の補完になってて、それはエヴァンゲリオンからなんです。笑
──ステンドグラスとの出会いは?
2018年にヤングセンターの温泉に初めて入ったんです。本当は大衆演劇を観ないと温泉には入れないんですけど、その時期たまたま温泉だけ開放するって知り合いに聞いて何気なく行ったんですよね。そしたらまぁほんとに感動して。
そもそも温泉にステンドグラスがあるのも珍しいじゃないですか。しかも9枚。1枚1枚もでかくて全面に貼られてて。湯船に差し込んでいる光がステンドグラスを通した光だから色がついてるんですよね。
すごいきらめいていてその中に自分が入ってると、なんかちょっと新しい感覚というか。「ここ天国ですか?」みたいな。神殿みたいな作りだったので神聖な気分になるというか、ほんとに感動したんですよね。
自分が生まれ育った町にこんな素敵な温泉があることを初めて知って、俄然興味が湧いて別府八湯温泉巡りみたいなことをし始めたタイミングでオヤジが名人なのも知ったんですよ。で、始めたら温泉ももちろんなんですけど、「人」。
出会う人、出会う人、アタマのおかしい人ばっかりなんですよ。笑。おじちゃんもおばちゃんも若い人も。
本当にあった話なんですけど、浜脇温泉だったかな、番台のおばちゃんと1時間くらい話し込んじゃって、最後2人で号泣して終わるっていう。
あとスタンプ押せるとこだけじゃなくて、鶴の湯とか秘湯にも行ったりもして。10人くらいアジア系のイランとかイラクとかのヒゲがっつり生やした方達が入ってて、「ここどこだろ?」みたいな。
カルチャーがめちゃくちゃ混ざってる感じで、温泉巡りをしてる内に別府の「人」の魅力にやられちゃって。「こんなに面白い町なのか!」って再発見して。で、もう別府が大好きになっちゃって。
僕、撮影でニューヨークに行ったことがあって、肌的にすごく合うなって感じてたんですけど、軽く超えてきました。全然ニューヨークより面白いじゃん!って。いつかニューヨークで「入浴」ってイベントをやりたい!っていうのも夢になりましたね。
この別府の町を僕は写真家なので作品を通して自分の目線で伝えて行けたら面白いなってことを思い始めて。
一番最初に「ルートハチハチ」という企画を立ち上げて、88ヶ所の温泉と別府の人を撮っていってるんですけど、そのキッカケになった場所がヤングセンターの温泉だったんです。
だから無くなるって聞いた時に「何かをしなきゃ!」っていう義務感に駆られて。「ステンドグラスを残したい!」ってなったんですけど、何から初めていいかもわからず。
知り合いにアベリアさんっていう市役所で働いてる、「生まれ変わったら別府になりたい。」って言ってる、アタマのおかしいおばちゃん、、いやお姉さんがいるんですけど。笑。
アベリアも別府出身でニューヨークに行って戻ってきて「やっぱ別府は最高だ!」って言ってる人なんです。ステンドグラスのことを相談したら「今すぐ、現場行っちゃいなよ。」みたいなノリで言われて。
──ジャニーさんみたいな。
まさに取り壊しが始まってた時だったので、すぐにヤングセンターに行きました。「このステンドグラスどうするんですか?」って聞いたら処分するって話だったので、「だったら僕にくれませんか?」って熱い想いを伝えて、運搬費・解体費を自分で持つならってことで了承してくれました。
多分これが本物のガラスでできた「モノ」として価値のあるステンドグラスだったら、どこかに移設されんでしょうけど、僕は単純にこれを残したい!って想いが強かったんで、もう恋してる状態ですよね。で、なんとかその13枚が残せるようになったんです。
──設置場所へのこだわりは?
今思えば、ちゃんとPRも考えて、デザインすればもっと面白いことができたのかもしれないけど、でもやっぱりその時の衝動というか想いというか。
常々思うのが、これ藤井風くんの歌詞に出てくるからそこから取ったんでしょ?ってよく言われるんですけど、「全ての動機は愛であるべきだ。」と思ってて。何かしようと思う時って、やっぱり原動力は「愛」だと思うんですよ。
「か~な~ら~ず~最後に愛は勝つ~」ってあるじゃないですか、でも愛って負けてばっかりなんですよね。全然勝てないし、でもだからこそ最後までやり続けたら最後には愛は勝つって思えるんです。
だから僕は根本に愛がないとやりたくないし、ステンドグラスに愛を持ってくれた人が関わってくれたからこそ、今の形に落ち着いたんじゃないかと。計算してたら、もしかしたらうまく進んでいなかったかも。設置場所のこだわりというよりはもらってくださる方の想いを優先しました。
──クラウドファンディングの支援者へのリターンに、多くのアーティストが関わっていますが?
単純に僕が好きなアーティストさんたちです。さっきも言ったように別府ってアタマのおかしい人が多いので。個性的で変態な人たちが。笑。
そういう人たちがいるからこそ町が面白いし、ストリートの文化って、そこに集まる人が作るから。こんな面白い人たちが別府の町にいるんだよって、紹介したくて。
愛を持って物づくりをしてる人たちだから、その愛をみんなに知ってもらいたい、そして少しでも作家の皆さんの宣伝になればいいなと思って参加してもらいました。
鉄輪に「ヤソグ」に見えるって有名な「ヤング」っていう看板無くってしまったので、「ヤング」をテーマに作品作りをお願いしました。「ヤング」ってちゃんと商標登録されていて、今回特別に使用させていただいてるのである意味最後の「ヤンググッズ」になるんです。
今回、集まった資金はステンドグラスの設置費だったり、回遊するためのウェブサイトの制作費用だったりに使わせてもらうんですけど、作家さんのファンやヤングセンターのファンももちろんですが、文化保護的な意味もあるので、ただただモノを買うというよりもそこに愛を感じてほしい。
自分のお金が文化を維持するためのお金として使われるので、ただ「このTシャツ欲しいから買う!」っていうことじゃないところまで考えて買ってもらえるとすごく嬉しいです!
クラウドファンディングは5月20日まで!
https://camp-fire.jp/projects/508719/preview?token=14t5vwe1
──2020年にもクラウドファンディングで行ったおばあちゃんとの写真展を開催してますが、子供の頃からおばあちゃん子だったんですか?
全然です。むしろ、おばあちゃんとそんなに濃い縁を作ってこれなかったことがコンプレックスで。家族とか、おばあちゃんを大事にしてるっていうのになんか憧れみたいなのがあって。
東京にずっといたから年に1回、誕生日に電話して「おめでとう!」って言うくらいの関係だったので、恩返し?おばあちゃんが100歳を迎える時に何か恩返しできないかなって。
今までコミュニケーションも取れてないし、おばあちゃんも写真やってて、俺も写真家なのに写真の話もしたことなくて。それって勿体無いというか寂しいというか。
だからなんか、おばあちゃんのために記念になるようなことをやってあげたいなって思ったのがその「141歳の写真展」を開催したキッカケですね。
それからのこの1、2年でおばあちゃんとめちゃくちゃ仲良くなりました。今、102歳なんですけど、杖ついて自分で歩いて「こんな写真撮りたいわぁ。」って今も向上心があって、ちゃんと会話もできるんですよ。それってめちゃくちゃすごいことだなって。
写真をやってたからボケずに元気にやれてるんじゃないかって、自分でも言ってましたね。写真始めたのが60何歳なんで、本当に挑戦することに年齢制限なんてないんだなっていうのを、おばあちゃんが体現してくれてます。
──写真家を始めたのは、おばあちゃんがキッカケでもあるんですか?
日本って、写真撮ってもアルバムにしまっておくことが多いじゃないですか?でも、おばあちゃんて海外の家みたいにちゃんと額に入れてバァーって飾ってたんですよね。そういう意味では今、写真家やってるのっておばあちゃんの影響があったのかな。
ちっちゃい頃からおばあちゃんの写真見て、「きれいだな~。」って思ってたのでそういう普通の人の家にはない環境は確かにあったかもしれませんね。
──その前にはミュージシャンもされてたとのことですが、東京へはミュージシャンを目指して?
東京に出てきたのは、19の時だったんですけど。実はお葬式の時に親戚のお姉ちゃんに一目惚れしちゃって。「なに、あの可愛い人!」って。
ちょうどその頃、音楽やりたいって思ってて、そのお姉ちゃんも東京に住んでたので、これはいいキッカケだ!と思って、口説いて、実際に付き合い初めて。親戚のお姉ちゃんの家に転がり込みました。笑
──愛は原動力ですね。笑
そうそう。好きになってなかったら東京に出てないですから。で、「俺、音楽やる!大学辞める!」って。若いから甘えてた部分もあったんですけど、東京でバンド活動も始めて。
30までデビューできなかったらやめようと思ってたので30を機に辞めたんですけど、趣味で自分のバンドのデザインとか写真とか撮ってたのでこれを仕事にしよう、と。
自分の個人的なウェブサイトもやってた時に「東京神父」っていうハンドルネームを名乗ってて気に入ってたので、そのまま写真家としても使っちゃおうって。
名前の由来をよく聞かれるんですけど、今年44で別府に20年、東京もだいたい20年、宮城に3年なんで、東京と別府のアイデンティティがあるんですよね。だから両方の名前を使いたいなって。
最初、「東京熊八」にしようと思ったんですけど、ちょっとダサいなって。笑。東京別府だと名前っぽくないし。熊八さんは途中でキリスト教に改宗してるんですよね。一度儲けて、破産して。これからは人のためにやっていこうって。それも愛じゃないですか。
キリスト教って、宗教って愛と繋がるなぁって。キリスト教、、牧師、、神父、、、「東京神父」って並べた時にすごい字面が良かったから「東京神父」っていう名前にしました。
──今回のクラウドファンディングもそうですが、「BEPPU ONSEN ROUTE 88」やおばあちゃんとの「141歳の写真展」など感動力からの反射神経というか、その行動力や人を巻き込む力はどこから?
やっぱり「人」が好きなんでしょうね。写真家としても人を撮るのが好きだし、人って面白いなって。人への興味みたいなところが原動力になってると思います。
37歳で別府で活動し始める前までは自分でも思うんですけど、いけすかない野郎だったんですよ。ちょっと人を見下してるところがあったりとか、斜に構えてるというか。
飲み会に行っても話に馴染めないというか。馴染みたい欲はあるんですよね。でも恥ずかしいとか面倒くさいって、何かと理由つけて逃げてたんです。
そこから脱せたのは奥さんからの手紙がキッカケなんです。日常的に気持ちを手紙に書いてくれる人なので、日々感謝してるんですけど。
別府と宮崎の高千穂を観光して東京に帰って来た時にもらった手紙がいつもより濃い、本音を晒け出してくれた内容で。
自分の不甲斐なさになんかこう打ちのめされたというか、「俺、なにやってんだろ、、」みたいな。そこで「なんか変わらなきゃ!」って思えて。
ちょうど色々重なったんですよね。ヤングセンターの温泉に入ったのもその時なんですよ。そこから自分の好きなことを口に出して言っていくってことがすごく大事なことだって気づけたんです。
ふざけた話じゃないんですけど、僕おっぱいが大好きで。「おっぱい好きだ!好きだ!」って公言し始めたんですよ。
そうしたら自分の心の中の源泉の蓋がパカッと空いて。人と仲良くなりたい!とか、おっぱい触りたい!とか、いろんな欲が温泉みたいに噴き出てきて。そうなったらもう止められなくなっちゃって。「人生楽しい!」みたいな。
好きなものを好きと言える「勇気」、と言っていいのかわからないですけど、その情熱というか。でもそれって自分が変わろうと思い続けてないと変われないと思うんですよね。
だから今の自分やだな、素直になりたい、もっと理想の自分になりたいって思い続けてたからこそ、そのキッカケがやってきて。掴んだからこそ、自分が本来やりたいことへの欲求が表に出せた時にエネルギーになったんですよね。
僕も気兼ねなく周りに伝えるので、「それって言っていいんだ。」「もっと自由で、ありのままでいいんだ。」って感じてくれてるからこそ、みんなが影響し合って動いてくれる。それも僕は愛の力だと思ってます。
おっぱいってやっぱ愛じゃないですか。
──最後に未来の支援者へメッセージを!
愛だろ、愛っ。
写真家 東京神父
1978年4月20日|B型|別府出身|自由が丘在住
29歳までミュージシャンとして活動。自身のバンドのデザインを始めたことがキッカケでフリーの写真家、デザイナーとして活動を始める。
写真作品の他にもWeb、DTP、ロゴ、CDジャケットなど制作物は多岐に渡る。