大分発 シンガーソングライター 中村慎吾インタビュー!

大分発 シンガーソングライターの中村慎吾インタビューです!

臼杵出身で兄弟アコースティックデュオ”かぼす”として大分でも親しまれてきた中村慎吾くん。
本格的にプロのシンガーソングライターを目指し、上京していろいろな葛藤を経て、また大分から再出発するまでをいろいろと話してくれました!

将来の夢はとてつもなく大きい。
でもしっかりと現実を見据えて、慎吾くんの思いを聞いていると本当に叶うような気がしてくる。
音楽的に素晴らしいとか、歌がめちゃくちゃうまいとか、声に特徴があるとかじゃないけど、慎吾くんの歌はストレートに心に届く。

夢を追いかけてる人、大分を出て独りで頑張ってる人、悩んでる人、辛いことがあった人
ぜひ慎吾くんの歌を聴いてください!

12月17日(日)には、牧駅近くのf sound cafeで『中村慎吾ONE MAN LIVE「うたいおさめ 2017」』が開催されます!

チケットはこちらから!
http://sncbstobe.wixsite.com/nshingo/live

 

大分発 シンガーソングライター 中村慎吾インタビュー!

 

Yadorigi編集長 一尾(以下、一尾):音楽の道に進むキッカケは?

中村慎吾(以下、中村):10年前に阿部真央さんやGoose houseのワタナベシュウヘイさんなど、大分出身の方々が大分駅前地下道でストリートライブをされてた時に見て「こんな人が大分にいるんだ!」って感動して、「自分もやりたい!」と思ったのがきっかけですが、当時一人でストリートに出る勇気はなかったので、その年のお年玉で弟に無理やりギターを買わせて、二人組のデュオ”かぼす”でストリートで歌うことを始めたのが、きっかけです。
最初は「目立ちたい!」「モテたい!」ただその一心でした。笑

一尾:中学の時すでにギター部で音楽はされてましたよね。

中村:それが主にクラシックの部活で、ビートルズ等の楽曲を自分たちで譜面書き起こして演奏してたんですが、僕の中でのギター部のイメージは、フォークソングやその時の流行の歌を弾き語りするイメージがあったので「え、こんな地味なことするんだ…」って入って気付いて。笑。当時好きだった子が部内にいたり、友達や先輩と話す為だけに部活に行ってました。演奏会の時はステージに立たないといけないけど、全く弾けないので、指板を押さえて弾いたフリしたり、本当に不真面目でしたね。笑

一尾:プロを目指そうと思ったのはいつ頃?

中村:音楽を生業にしていこうと動き始めたのはちょうど5年くらい前ですね。兄弟デュオ”かぼす”として5年間活動してたんですけど、一旦休止しようって話になって、当時まだ1曲もオリジナルもない中、ソロでいくことを決めて。1年間で、かぼすでやってきたこと、単独公演の動員を超えられなかったり、”かぼす”とはまた違う音楽を表現出来なかったら、音楽辞めようと決めて歌ってました。1年間で20曲ペースで曲を作って、アルバムも2枚自主制作でリリースしたり、「なんでこんなこと決めちゃったんだろう」って後悔しちゃう時もあったんですけど、ちょっと背伸びをしたら越えられそうな壁を越えていく自分自身だったり、葛藤する過程とそれを超えた時の景色や出会えた方々がいることを教えてもらえたからこそ止まれなかったです。

ユニットの時は二人で足並み揃えて同じ方向を見ていかないといけないのに、一人で方向を見据えて歩いてしまっていて、弟がこういう時にフォローしてくれてたんだなぁ。ってソロになって気付かされることがたくさんありました。たくさん間違いや失敗しながらも、責任を持って、地盤を固めれた1年間は宝物です。

一尾:独りになってから東京に上京するキッカケは当てもなく?

中村:キッカケは、当時付き合ってた彼女が上京するということで。その彼女が東京に行く1年前に「あんたが帰って来れる場所を作っとくわ」って約束して、その子の為に上京したんです。笑。「もっと違う世界を見てみたい。もっとたくさんの人と出会いたい。」って気持ちももちろんありましたよ。笑。上京することに抵抗もなかったし、自信あったので。調子ノッてたんです、きっと。

東京に行く行かないを決める前にライブハウスを紹介して頂いて、上京する1ヶ月前に全国ドサ回りをして、「毎日ライブをしても、それでもやりたい気持ちがあるか?」自分自身を試したかったんです。
案の定、5本目くらいに声が出なくなってしまって、あと25本どうするんだ?みたいな。初めての土地ばかりでお客さんも全然呼べなかったけど、知り合いに声をかけまくって、3、4人のお客さんの前で歌って、共演者の方も凄い人達が沢山いて。その中に凄い人間味を持った人達がいて、全く歯が立たなかったのが悔しくって、上京して歌うたいとして、人間として、認められたかったんだと思います。

一尾:その時はライブやCDの売り上げだけで生活してたんですか?

中村:そうです。今でも覚えてるんですけど、初めてのツアーから帰ってきて10万円手元にあったんですよ。初めて音楽で得たお金で、たくさん出会った方々の気持ちが入った10万は、ドン・キホーテで働いてたこともあるんですけど、その給料よりも重かったです。

一尾:それから本格的に東京で活動しだすんですね。

中村:11月5日に一度大分に戻ってきて、11月6日の僕の誕生日の日に「2週間後に僕は上京します!」っていうのをお知らせして。上京前に大分でワンマンライブをして、終わってようやく上京するんだ。大分を離れるんだ。っていう実感が湧いてきて。引越しの準備も何もしていなくて、出なくちゃいけない日の1週間前に、不動産屋さんに「急遽転勤が決まって1週間後に出ないといけないので、、すみません。。」って謝って出た記憶があります。笑。旅中に大阪で出会ったコバケンっていうシンガーソングライターに「明日から泊めて!」って居候させてもらう所から、僕が東京の生活が始まりました。そこからバイトを探して、生活の基盤をしっかり作らなくちゃいけないし、早く一人暮らしもしなきゃ、バレンタインには彼女もこっち来るだろうなって思ってたので。

一尾:笑

中村:それまでにはなんとか自立して家も借りときたいっていうのがあって。働きながら、ライブも月3、4本しながら、いろんな方との繋がりを作りながら活動してました。借金も当時いっぱいあって、いろいろと言えないような怖い目にもあったり大変な時期でした。笑

一尾:笑。東京でもライブをされていたようですが、CDとしての作品は?

中村:12月に上京してきて、翌年の2月に東京で山崎まさよしさんや高橋優さん等を輩出してる老舗のライブハウス「四谷天窓」のオーディションライブに出演して「僕、ここでワンマンライブしたいです!」って言って。笑。1年間でここを満員にすることを決めました。
理想と現実は全く違って、最初はノルマを払い続けなくちゃならなくて、CDをリリースする理由がなかったんです。だからこそ、決めたワンマンライブまでに、1年間上京しての言葉を詰め込んだアルバムを届ける理由が欲しかったのだと思います。1年間で天窓が埋まった景色は今でも忘れられません。

2014.12.28(日)中村慎吾ONE MAN LIVE「HOME」@四谷天窓【東京】

一尾:音楽活動をする上で東京にいた方がいいと思うんですが、今年大分に帰ってきたのはなぜ?

中村:初めてのワンマンライブの後、ワンマンツアーを2度敢行したり、1年間、毎月第3金曜日にレギュラーライブ企画をやらせてもらったり、初ワンマン以降、2年程アルバムは出していなかったんですが、これまでと同じことをしていたら同じ様なアルバムしかできない。昨年全国流通アルバム「廻から出たサビ」をリリースのご縁をいただき、音楽はひとりで作るものではないと気づかせてくれました。でも事務所側と制作サイドと結構ぶつかって、意思疎通がうまくできなくなって、人間不信になって「もうこのままやめよっかな」って実は思っていたんです。

一尾:そこまで、、

中村:その頃は抜け出すための手段がわからない。目標だけ大きくて、何から手をつければいいのかわからないから、CDが売れない時代だからだとか、色んな事を理由にして、毎晩のように飲み歩いていました。当時はまだわかってなかったですけど、そこの事務所を辞めてから勉強になっていたと気付くこともたくさんありました。そうした中で上京した時と同じ気持ちじゃないにしろ、一度すべて環境をリセットして、またゼロからやり直したいと思い、大分に拠点を移す事決めました。ただ決めた当初は「逃げ出したい。」って気持ちが大半を占めていて、その理由を探すところからのスタートだったので、ファンの方々にはかなり心配をさせたなぁと思います。

「大分に帰ります」っていう決断を発表して一つ肩の荷が下りて、今年はワンマンツアーを5ヶ所でやらせてもらったんですけど、色んな気持ちがぐしゃぐしゃで。そんな自分だから音楽をやっている事に何も説得力がない。後ろめたさみたいなものが常につきまとっているような感覚で。

一尾:肩の荷が下りたのに?

中村:色んな支えがあると感じさせてもらえたし、俺のファンと言ってくれる人がこれだけいるのかって。改めて感じられたツアーだったからこそ、「これをずっと続けていくことに意味があるのか」って事にまた悩み始めて。笑。そのワンマンツアーは大分の駅前地下道で歌っていた頃の楽曲を歌うことも多くて、過去の自分の心境と今の自分がうまいこと重なって、こんなに過去の自分は素直に歌を書いていたんだな。って事にも気付かされた中で、その曲ができた景色の大分に帰って来れたことは本当に良かったと思ってます。またゼロから。でも、ゼロがこれまでと全然違って。色んな人が期待してくれている事に対して、もう逃げない。言い訳はもういらない。だからがんばる!みたいな。笑

一尾:大分に拠点を移してからは、どんな活動を?

中村:上京したこともそうなんですが、これまでは今まではやろうと思ったことはすぐ行動に移してたんです。それが僕の良さでもあったんですけど、今年27歳になって、勢いだけでなんとかなる歳でもなくなってきたので。笑。もっと一つずつのことを練って、練って、練って。もっと沢山の方々に届けるための準備期間を作りたいなと思って、これまでのライブ活動と並行しながら、来年また一歩勝負出来る様に、新たな作品を準備中で、そこからがスタートだと思っています。これまでの自分の活動じゃない部分のいろんな人と出会いや繋がりをいただいて、ここまでに至るまでに時間はかかりましたが、今こうしてYadorigiで取材してもらえることも一つの成果です。

一尾:嬉しいな。笑。中村くんの詞は聴く人を慰めるような、でも自分に言い聞かせてるような歌詞が多く感じられますが、個人的には「音楽が死んでいく」とか「おっぱい」が好きなんだけど、、音楽制作で大切にしていることは?

中村:5年前と今では歌詞の書き方が全く違うんですけど、一人の人をずっと想い続けてきたからこそできたラブソングだったり、答えのない葛藤の影の中から見えた光の歌だったり。こうして出会ってきた人がいるからこその歌だとか、この5年の活動の中での歌は全然違って、様々な感情模様があって、自分で振り返っても面白いです。あの頃の自分があるからこそ歌える歌だったりするんですが、歌詞を書く上で一番大事にしてるのが「孤独」と「コンプレックス」です。特に孤独は、友達です。笑。

パーソナルな生身の部分を歌うメッセージ性の強い音楽もとても好きなんですが、それは僕じゃなくてもいいかな。って思うところもあって。もっとまっすぐな言葉で、足りないぐらいの言葉の方が届いたりする。言葉のキャッチボールってとても大事だな。って。しっかり受け取ってもらえる球を投げて、時々豪速球を放ったりして、飛んだきたことのない方向に投げて新しい自分を見つけて欲しいというか。ちょっと前までは俺はなんてあまのじゃくなんだ。自分の居場所はどこなんだろう。ってずっと思ってて。今強く思うのは、「私の居場所はどこ?俺の居場所どこ?」ってなったら「ここにきていいよ。」と、「大丈夫!」って言葉するよりも、「1曲歌ってあげるよ」って、そんな歌うたいになれたらなと思います。

一尾:過去の自分があるからこその歌が生まれてくるということですが、どんな子供でしたか?

中村:どういう話がいいですかね。笑

一尾:捕まらない程度の。笑

中村:笑

一尾:きっと子供の頃からいろいろとぶつかってきたから、今の優しい歌詞が生まれてきてるんじゃないかと思って。

中村:もともと僕は、一人の時間が好きで、すごく内向的で。ひきこもってパソコンゲームしてたり、その週のオリコンのトップ20を毎週CDレンタルしてプレイリストを作って聴いてたり、オールナイトニッポンを毎晩録音してずーっと聴いてました。両親はもともと花屋を自営業してて、高校卒業するあたりの時に店をたたんで。自己破産だったり、お母さんが家からいなくなったりとか。両親に気持ちを伝えたりコミュニケーションのが素直にできなかった僕は、中学時代イジメにあって、今考えたら僕にもイジメられる理由はあったと思うんですけど、そこで一つ人を信じられないトラウマができてしまって。毎日、部活終わって泣きながら帰ってましたね。あの時は人と顔を合わせるのも嫌だったですし、先生に言っても「イジメられるお前が悪い」って言われて…。朝、教室に入ったらベランダに机と椅子を出されたり、ドラマかよって。笑。1週間に1度ぐらい心折れて、休むこともあったんですけど、僕自身もナニクソ精神で、意地でも中学の時は学校行ってました。笑

一尾:たくましいね。笑

中村:そのイジメグループとなるべく関わらないでいい高校に行こうと思って、進学校の臼杵高校に。きっと高校デビューを謀ろうと思ってたんですよね。笑。でも友達を多く作ろうとしすぎた結果、広く浅く友達ができてしまって、どの輪にも入れなくなってしまって。それと進学校ならではの学校方針でみんながみんな同じことをしてて、「学校って楽しくなっ」って思ったんです。社会不適合者ですね。笑

当時、両親が離婚したり、「家にも帰りたくない」「学校にも行きたくない」だから、一日中ずっと近く川にいたり、部室で寝てたり、寺の友達がいたので寺に泊まらせてもらったりしてました。

一尾:臼杵川で?

中村:臼杵川で釣りして、焼いて食って、みたいな。なんやろこれ?って。笑。あと、(ピーーー)とかして生活してました。
その当時、初めて彼女ができて、彼女の家に行ったり、学校にもっと行かなくなって。で、お互い学校に行かなくなって。すべてが悪循環でしかなかったです。笑。きっと僕らだけの世界があればいい!みたいな感覚だったんだと思います。

一尾:その時から彼女に捧げる歌を?

中村:それも、もちろんです。当時なりの歌詞だなとは思うんですが、今聞いても恥ずかしいラブソングです。。。笑。高校も行ってなかった僕なので、今高校時代の友達に会ってもちゃんと話せない自分がいるんですよね。この間、クラシックの世界で活躍してる、中学時代の友達の単独公演のゲストで歌わせていただく現場があったんですけど、その友達は当時からクラスの人気者キャラで未だに性格も全然変わってなくて。話してると中学時代の気持ちが蘇ってきて、嫌な自分を思い出しちゃう自分もいて、あの時の自分にそんまんま重なって、上手く話せなくなって。帰って2日間くらいブルーな気持ちから抜け出せなくて、「なんであんな気持ちになったんだろう。」って向き合って「あ、俺ずっと人に劣等感を抱いてたんだ。羨ましかったんだ。」って。

当時の家庭環境とか学校とか。お父さんとお母さんにも別れてほしくなかったり、あの時素直になれなかった自分がたくさん見えてきて。きっとこれから先、家族揃ってご飯を食べることは一生ないんだろうなぁ。とか。今回こうしたインタビューがあるからこそ、振り返ったこともあるんですけど、なんかこう、、、ね?笑。

一尾:ありがとう。笑

中村:これまで家族の歌とかも避けてきたんですよ。作ろうと思って作れるものではないし、人を感動させようと思って歌は作るものではないので。いつかこういった気持ちをそれこそ歌うたいとして、自分にしか歌えない歌を歌いたいですね。これまで、イジメや不登校のことをステージでも語ることもなかったんですよね。恥ずかしいというか、それを武器にしたくない。って意固地になっていた自分もいて。でも、やっぱりそういう自分のバックボーンの歌を書くことがいつかできるようにもっと自分と向き合うべきだなってすごく感じました。拭えない過去や感情を、言葉にしきれてない気持ちがたくさんあるんです。だからこそ、歌を歌うんだろうな。と思います。

一尾:中村くんにとって歌うことは、伝える手段?

中村:そうですね。最初の頃はただの憧れで始まったことなんですが、”生きる”ことが”歌うこと” ”歌うこと”は”生きる”ってことに気付かせて貰いました。大分に帰ってきて、よりそういうことを感じますね。

一尾:今後の夢や目標は?

中村:大分に住んでいながら大分での活動をそんなにしてないじゃん!って意見も実際いただいて、活動としても視野を拡げて、大分だからこそ、できることを。僕のことを知らない方々に向けても、「やっぱりこうでなくちゃ」と今まで好きだと言ってくれていた中村慎吾の音楽やルーツも大事に、来年のリリースを機に知らない人達に向けても発信していけたらと思います。

今は笑われるかもしれませんが、本気で紅白歌合戦に。Mステに。憧れの舞台に立ちたい。と今は言い切れます。
今はCDがどんなに売れても地元の友達に届かないようなネットの時代になってしまってきたからこそ、紅白やMステに出て、友達や両親に「ありがとう。」ってメッセージを届けたいです。

一尾:今年、紅白初出場の竹原ピストルさんとは親しい間柄だと聞いたのですが、近い人が紅白に出ることで刺激されたというか、紅白が明確な目標になった?

中村:ピストルさんが出たから出たい!じゃないですけど、共演したり、お酒飲んだりしてた方が出るっていうのは「あ、夢って叶うんだ」って。ピストルさんの歌は、自分自身と向き合い続けていないと生まれてこない言葉ばかりなので。1つの生き方みたいなのを示してくれた人で、すごく刺激になりました。僕がピストルさんの背中を見てる様に、僕も後輩だったり大事な仲間がいて、追われる背中をしっかり見せていきたいです。だからこそ、もっと良い歌を。一つ一つのステージに当たり前に全力で。あんな日があったからこそ今笑っていられるんだ。って言い切れる人生を送れるよう、もっと苦労していきたいですね。

僕の音楽に救われたという方もいるかもしれないけど、何度も何度も僕の方が救ってもらってます。悩んできたから今みたいな思考になれた考え方もあるけど、やっぱり歌を聞いてくれる人達に励まされながら、やってきたんだなって感じたこの5年間でした。

自分自分!というふうに考えがちなんですけど、自分の歌を聴いてくださった方々と繋がりを持ってくれた方と、これからも一緒に歩んでいきたい。これからの未来を、これからも共有していきたいです!

 

中村慎吾(なかむらしんご)
シンガーソングライター

大分県臼杵市出身、平成2年生まれのシンガーソングライター。
2度の全国ワンマンツアーを敢行。2017年より活動拠点を地元大分に移し、生活に寄り添う「LIVE」というナマモノだからこそ表現空間を大切に、全国のライブハウス、インストアライブ、老人ホーム、被災地施設訪問など場所を問わずの活動と並行し、現在2018年作品リリース、地元大分での自身最大規模の単独公演に向け、制作・準備中。

・第10回NPOかぐや姫音楽祭 グランプリ受賞
・おおいた夢色音楽祭ミュージックコンテスト2013 準グランプリ受賞
・2015年大分合同新聞 CM/bayfm NEXT POWER ON! 2015年4月パワープレイ「夢の足跡」
・SUZUKI TOMCAT CM「僕らの未来」「Baby LIke」
・全国流通版album「廻から出たサビ」大分タワーレコードオリコンチャート週間1位獲得

オフィシャルサイト:http://sncbstobe.wixsite.com/nshingo

ブログ:https://ameblo.jp/cbshingo

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