(前回までのあらすじ 4日間しかないNY滞在。自転車を駆り街々を巡るが観光客に見せるNYの素っ気なさにへそを曲げた僕は、インスタグラムに無意味な投稿を繰り返していた。そこになんと、カモシカ書店に来たことがあるという見ず知らずのニューヨーカー、マットからインスタグラムにメッセージが来て、お茶をしよう! と誘ってきたのだ)
番外編 紀行文「ニューヨークは晴れているか?- 後編」岩尾晋作
キャナルストリートのカフェで会おう! と言うマット。
僕は約束の日にチェルシーからキャナルストリートへ自転車を走らせた。これは結構距離がある。夜はマイナス4度を下回ったNYだが10キロも全力でペダルを漕ぐと汗だくになる。行ってみるとこの辺は巨大なチャイナタウンだ。約束のカフェに入りオレンジジュースを一気飲みして(6ドルぐらいして結構割高。さらにチップボックスもあって、お釣りを投入してしまう)マットを探す。奥のテーブルにいるアジア系の顔つきの男が手を振った。
席について言葉を交わす。
「まずさ、ぼく、英語がそんなに得意じゃないんだ、マット、日本語はできる?」と僕は訊いた。
「日本語はほとんどわからないんだ」とマットは言って、僕たちはゆっくりシンプルな英語で話すことになった。
(ちなみに語学力の話をすると僕は8年ぐらい前に受けたTOEICで700点ぐらいだ。まあ、ほんのちょっとは、やりました、という感じ。最低限、旅行には困らないけど議論をするには修行が足りない。それに机上で勉強しただけなのでとにかく聞き取りが弱い。NYで痛感したが、ネイティブの英語はやたらと聞き取りにくく辟易してしまった。やっぱり本を読むだけでなく、会話の経験がいるのだ、当たり前だけど)
続いて僕は訊いた。「マットはどうしてカモシカ書店に来たの?」などなど。
「ベップとオオイタに行ったことが2回ある、ガールフレンドがオオイタ出身で、彼女の母親はまだオオイタに住んでいる。ベップは面白いね、僕がよく行くポートランドの魅力に似ている。海と山が近くて、程よい都市規模とかそういうところがね。カモシカ書店? 旅先では必ず本屋を探して訪ねるから、2度行ったよ、ああいう本屋がもう少しあるといいね。普段? 僕はフリーのキュレーターをしているんだ」
マットはそのようにとてもわかりやすい英語で話してくれた。
僕はNYの実感を、正直に、今まで行った外国ではいちばん気に入っていない、しっくりこない、と話した。
するとマットはこう返した。
「NYは資本主義の都市。それに地価が上昇しすぎて若者や芸術家の居場所がない、何をするにも高い。チェルシーのギャラリーなんかは商業主義すぎてぼくらは好きではない。今いちばんおもしろいのはチャイナタウンだ、これから少し案内するよ」
カフェを出た僕らは少しあるいてすぐに地下にある古書店についた。
Aeon Books と看板がある。店内はDJブースと、2000冊ぐらいの古書。精神世界や詩、哲学書。そして写真集に美術書、画集。テーマがスマートにまとまっていて、お店の人の顔が見える。いわゆる洗練とは違う、野性的な魅力。こういう本屋は日本でも決して斬新というわけではない。むしろ僕にとっては本屋とは本来このような物事への方向付けを持ったメディアや表現行為であり、Aeon Booksはその意味でスタンダードな本屋と言える。
商業主義に染まらないところを持っていることが大切なのだ。おしゃれさなんてくだらない、とは言わないが、信念の次の次の次ぐらいの問題に過ぎない。
マットに連れられて更にチャイナタウンを歩く。急に、都内の駅の高架下にある生協のようなスーパーが立ち並ぶショッピングモールが現れマットはそこに入った。商品は中国語表記ばかりになり、客もアジア系の人しかいない。こんなとこに何の用が? まあ、自分だけならまず入らないだろうから面白いけど。
そんな中をずいずいとマットは進んで大分の岩尾洋装店みたいな衣料品店の隣の階段を上った。2階はかつてあった数々の衣料品店の抜け殻、といった模様で、ガラスの壁、そして照明を引っこ抜かれたような天井しかないスペースとなっている。
なんだここは? 何かの罠なのかと疑いを持ってもおかしくないシチュエーション。インドに「ナイスバー」というお店があって、たしかチェンナイだったと思うが、お酒を飲むにはナイスバーに行くしかなかった。ナイスバーのドアは厚く重い。中をそっと覗くと真っ暗闇。これぜったいやばいやつやん、と思って頭から突っ込んでいった記憶が蘇る。でもマットは間違いなくいいやつだと僕は信じていた。それにナイスバーだって、隠れてこっそりお酒を飲んでいる現地人のために真っ暗なだけで、実際は店員もいいやつで、会計も明朗だった。大体そういうものなのだ、と自分に言い聞かせる。
慣れた足取りで奥へと進むマットについていくと、なんとそこにギャラリーが現れたのだ。(ほら、やっぱり大丈夫じゃん)
壁にいくつも写真作品が掛けられていて、部屋に人は誰もいない。客も僕ら2人だけのようだ。隣の部屋も、同じように写真がかかっている。マットが言っていたのはこういうことかと頷いた。おそらく1階が食料品売り場で、2階は衣料品売り場だった中華系のショッピングモールだ。徐々にネット販売にマーケットを奪われていった実店舗が次々と撤退していき、ついにガラガラのスペースになった。建物自体が中華系の人のためのものだから2階に簡単に新しいテナントは入らない。そこに若いアーティストたちが目を付けたのだ。
フロアにあるのはギャラリーだけではない。手作りの服を並べたお店、レコードや本を並べたお店、2 Bridge Music Art(日本の書籍がたくさんあった)もあり、客も僕らだけではないことに気付く。さらに何もない部屋でひたすらパソコンに向かっている人がいる。ガラスには「PHILOSOPHICAL INVESTIGATION AGENCY」と書いてある。
哲学調査機関? これはなに? とマットに訊くと、
「僕も分からない」と笑って応えた。
僕が見たチャイナタウンのムーブメントは、つまりは地代が安いところに若くて自由で新しい空気が流れ込んでくる、という日本の地方都市に暮らしていると感じる希望、面白さの可能性と原理的には同じことだ。いまさらNYでそれを確認するなんて滑稽だ、と自分でも思うのだが、寄せては返す絶え間ない新しい波の健やかさ気持ちよさ。やっぱりそういうのが好きだ。そしてここからどんな劇的な展開が待っているかわくわくする。そういう可能性を感じさせてくれる街が好きだ。
だから僕はウイリアムズバーグよりもミッドタウンよりもブロードウェーよりも、マットが教えてくれたチャイナタウンが好きだ。人工物の砂漠の中を自転車で徘徊し疲弊していた僕にとってはやはりオアシスであったし、砂漠の中にこそ次の時代を作る図太い生命力が試されるのだろう。砂漠とバイタリティ、これがNYの魅力なのではないか、と一応わからないなりに、言っておこう。
旅というのは、日頃の自分の審美眼、体力、夢、語学を始めとする知力を持ってして己をその地に叩きつけることだ。つまりライブ、自分を演奏することなのだ。やれるようにしかやれない。ごまかしは効かないのだ。田舎者なら田舎者として、頭から突っ込んでいけ。
NYで自転車に乗ってチャイナタウンに行く。雑誌やSNSで流れる艶やかなNYは僕には微笑まない。そもそも仕事で呼ばれたり、きちんと用事や友人がいたりしないとこの街が本当の門戸を開くことはないのだろう。おそらく、それほどに層が厚く、(排他的な)奥深い街なのだということは想像できる。(つまらない構造だ)
観光客はこれでも見とけ。そんな「有名どころ確認旅行」に反旗を翻したくも何の手掛かりもない。知り合いもいない。考えてみればそれこそが純粋な旅のスタートだ。
「何からの自由か」ではなく「何を目指しての自由か」を語れというのはニーチェの思想のいちばんの宝物だと信じている。
最後に言っておこう。僕はやっぱり今自分がいるところ、そして明日の大分を目指してNYを旅してきたのだ。
再会を約束して別れたマットは必ずまた大分に来てくれるだろう。大分出身のガールフレンドと一緒に。僕はもうちょっと英語を上手にしておく。そしてそのときこの街を、自転車で駆け抜けられるように、気持ちよく晴れていることを願うのだ。
(了)
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