2014年5月、大分市中央町に誕生したカモシカ書店。
古本を中心としながら新刊も取り扱い、カフェとしても気軽に利用できる癒しの場。
手作りケーキやこだわりのコーヒー、水曜日のネコというフルーティースパイシーな珍しいビールもお楽しみ頂けます。
定期的に本だけに留まらない知的好奇心を刺激するイベントを開催。
そんなカモシカ書店の店主、岩尾晋作くんのコラム第四話です。
オムニバス的に一冊の本を紹介していく人生の短編集。
どうぞ、お楽しみください!
なお、紹介されている本は実際にカモシカ書店で購入することができます。
※すでに売切れや非売品の場合もありますので、ご来店前にカモシカ書店へお問い合わせください。
第四話「限りなく透明に近いブルー」村上龍
「おい、岩尾。岩尾!」
と英語教師が呼んでいる。
私は他人の空似を演じながらカキ氷を作り続けた。内心、焦っていた。
(このままシカトでやりすごせるのか? もうバレバレではないのか?)
英語教師はさらに追い討ちの手を強める。あろうことか、3歳ぐらいのお子様を刺客として送ってきたのだ。
子どもは何のためらいもなく、私を呼ぶ。
「いわおくん。いわおくん」
こんな子どもにシカトぶっこいていいのだろうか? 私の良心は痛んだ。
しかし、ここで岩尾であることを認めることはできない、どうしてもできないのだ。
私は大分県立U高校の3年生で、いわゆる受験勉強の真っ盛りの夏休み、
そんなものはどこ吹く風、とでもいうように某サファリパークでカキ氷とアメリカンドックを売るアルバイトをしていた。
アルバイトはこれが初めてではない。すでにラーメン屋と引越しセンターで働いたことがあった。
そして、U高校はアルバイトは校則で禁じられていた。
隠れてアルバイトしていた2人の友人を除いて誰もアルバイトなどしている同級生はいなかった。
私が夏の青春の尊い汗を労働に流していたとき、不幸にも、U高校の英語教師がサファリパークにご家族で遊びに来てしまったのだった。
若さだと思うが、結論から言うと私は3歳児に対しても、シラを切りとおした。
(シカトはしていない。業務以外の私語を慎みとおしただけだ。)
その選択が正しかったかどうかはわからないが、夏休みの終わった新学期、その英語教師に咎められることになった。
今思うと、私はあのとき岩尾だと認めていないのだから、新学期に何を言われても平気なはずなのだが、まあ進学校で落ちこぼれていた私は失うものもそうそうないかと、安易に認めてしまったのだ。
現在のU高生がアルバイトが見つかったらどうなるか知らないが、私のときは停学になる、とそのとき教師に脅されたものだ。
でも教師も教師で私がろくでもない生徒だと知っているから、あまり処罰に興味がなかったのだと思う。
実際に停学になることはなかった。
教師は、ただ、惨めな違反者を嘲笑するような一瞥を最後に下さったのみだ。
誤解のないように先に言っておきたいが、私は母校U高校とその恩師たち、ともに過ごした同級生や先輩諸兄に大変感謝している。
目標を見出せず、路頭に迷う放課後、(朝から路頭をさまようこともあったのだが)そんな私にそれなりに構ってくださった先生方、大変お手数おかけしました。
それに同級生先輩諸兄、大分でカモシカ書店を興すにあたってどんなにU高の方々のご好意に触れたか、また今触れているか、感謝の言葉もございません。
単に私が言いたいのはこういうことだ。
薄暗い青春期に憧れたものは忘れることはできない、と。
私は押し付けられる高校の空気に抗うようにニルヴァーナを聴き、ランボオを耽読し、日々哲学的な悩みを宿しつつ実存の砂漠をさまよっていた。
というのは嘘で、私にとってつらく生き悩む高校時代は、進学に興味を持てないためにまわりと歩調を合わせることができず、もどかしい思いでアルバイトや深夜徘徊に精を出していただけだった。
そのかわりというのもおかしいが、ファッションと映画と文学に強く、憧れた。
海外の服飾デザイナーの衣服を求め毎月のように福岡に行き、服を漁ると同時にストリートカルチャーを肌身で感じた。
シネマ5で「ショーシャンクの空」や「セブンイヤーズ イン チベット」や「グッドウィルハンティング」に打ち震えた。
授業中に読むサルトルやドストエフスキーは、私に、複雑な人生を戦う覇気を与えてくれた。(先生、授業聞かないでごめんなさい)
ということはやはり、ニルヴァーナを聴き、ランボオを耽読し、日々哲学的な悩みを宿しつつ
実存の砂漠をさまよっていたのだと言っていいのだろう。
ちなみに高校が楽しかったのは恋愛をしているときだけだったと思う。
(今でも覚えているのはフランスW杯のとき、日本対アルゼンチンの日に付き合いだした彼女に
6日後のジャマイカ戦のあとにフラれてしまったことだ。初めてのW杯、私も岡田ジャパンとともになすすべなく、散った。)
以上、前置きが長くなったが、そんな灰色のコカコーラのような高校時代に私は村上龍の「限りなく透明に近いブルー」に出会うのである。
「限りなく透明に近いブルー」は当初のタイトルを「クリトリスにバターを」といって、
これを期に芥川賞の質が著しく落ちた、などと言われる日本文学の記念碑的作品である。
性行為や乱交の描写はあるが、別段ポルノというわけでもなく、
ドラッグと音楽と暴力の最中に、極めて都会的な詩情がふんだんに散りばめられた作品である。
地方の落ちこぼれ高校生だった私はこの都会的な詩情というものにすっかり参ってしまうのである。
(都会的な洗練というと私世代はむしろ村上春樹を思い浮かべそうだが、村上春樹についてはまだ語る勇気が起きないのである。なんといってもファンの年代層が広すぎて、迂闊なことは言えない、ような気がする。)
私に言わせると村上龍は、とくに「限りなく透明に近いブルー」は第一級の藝術作品だ。
何をもってそう言うのか、議論する気はない。
私は強烈に憧れたから、それが私にとって全てである。
自由であること。これは一面では非常に醜いことだ。
私の高校時代のように、大人の暖かい目を無視して、夜郎自大に振舞ってしまうこと。
自由にはそういう影があるからだ。
「限りなく・・・」に登場するジャンキーやヒッピーたちも、非常に醜いものだ。
反対に規律と義務と仕事、これに従うこと。
これも一面では非常に醜い。
思考を放棄して何も考えなくても、これらに従うことはたやすいからだ。
だから私はこういう方法をオススメする。
規律を否定し醜い自由をなめた後で、規律をもう一度肯定する。
自律、というやつだ。それは精神的な自立である。
まあ私は睡眠欲に非常に弱いので、偉そうなことは言えないのだが。
眠いのでここで筆を措こう。
「限りなく透明に近いブルー」
村上龍
200円
古本 新刊 喫茶
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11:00 – 22:00
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月曜日
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