014年5月、大分市中央町に誕生したカモシカ書店。
古本を中心としながら新刊も取り扱い、カフェとしても気軽に利用できる癒しの場。
手作りケーキやこだわりのコーヒー、水曜日のネコというフルーティースパイシーな珍しいビールもお楽しみ頂けます。
定期的に本だけに留まらない知的好奇心を刺激するイベントを開催。
そんなカモシカ書店の店主、岩尾晋作くんのコラム第十一話です。
オムニバス的に一冊の本を紹介していく人生の短編集。
どうぞ、お楽しみください!
なお、紹介されている本は実際にカモシカ書店で購入することができます。
※すでに売切れや非売品の場合もありますので、ご来店前にカモシカ書店へお問い合わせください。
第十一話「再訪のとき」小野正嗣
芥川龍之介賞は少し特別な文学賞だ。
私も以前憧れもしたし、現実的に私ごときも憧れることができたのだ。
というのは芥川賞とは基本的に新人賞であるからだ。
ざっくり言って、今までの業績が認められて貰える、という賞ではなく、今後が期待される、という賞である。
デビュー作がいきなり芥川賞を受賞することもあるし、芥川賞をとったからといっても作家としての地位が確立するわけではない。将来、時代を背負った作家とみなされるときに、振り返るとそのキャリアは芥川賞から始まってたね、ということになる。
現実、芥川賞を受賞後、消えてしまった作家はいくらでもいる。
わかりやすい例が沖縄出身の作家、東峰夫である。
「オキナワの少年」で文学界新人賞受賞、いわゆる文壇デビュー、同作で芥川賞受賞、その後いくつか作品はあるが、小説で食べていくことはなく、上原隆のノンフィクション「友がみな我よりえらく見える日は」でホームレスになった芥川賞作家として取材を受けている。(現在はホームレス生活ではないようだ)
ついでに言うと、東峰夫は幼少期大分で暮らしていたこともある。
このように権威や箔としての存在意義はそれほどではないのだが、芥川賞は注目される。
文学がテレビニュースで取り上げられるのは、芥川賞直木賞受賞者発表か(ノミネートはニュースにならない)、村上春樹がノーベル賞を取るかどうか、ぐらいのものなのは誰もが気づいていることだろう。
芥川賞はそもそもこういうものだ、とか、そんなことを言いたいのではなく、私が言いたいのは本屋からすると芥川賞はとにかく売れる作品になる可能性が他のどの賞よりも抜群に高いということだ。
それがいいとか悪いとかではなく、芥川賞の一面はそういうものであるというのが事実である。
だから「芥川賞受賞第一作」、という慣習的で不自然な言い回しがあるほど、受賞後の最初の作品はマーケティング的な意味でも、作家人生の創作のリズムとしても、大変重要である。
今回、小野正嗣は芥川賞受賞第一作という特別なカードを切った。
大分のために。
そう思った。
私は「再訪のとき」を最初に読んだとき、これは芸術家利用の悪例のひとつだと思った。
先述の「大分のために」というのは重要である。
私は大分は世界を代表する観光都市になると今後30年にわたり言い続けるつもりで、なによりもまず大分の発展を優先したい大分至上主義者だが、だからといって芸術家の限りある創作の契機よりも大分の発展のほうが重要だとは思わない。
なぜなら、都市は芸術を利用して作られるのではなく、むしろ芸術的感性によって能動的に構築されるべきだと考えているからだ。
都市や行政は、偶然にそこに生まれでた芸術的感性をスポイルしないように注意深く機能するべきで、芸術を自らのために利用するべきではないと強く思っている。
小野正嗣の芥川賞受賞作「九年前の祈り」は佐伯を舞台にした物語である。
東京と佐伯の断絶、血縁や地縁というしがらみ、郷愁と隣り合わせの夢幻的な異世界。
風習、世代、時代、海外、という氏の体験した人生の克服や苦悶やあるいは諦念、それら精神的な越境の歴史を作品を通して感じるのはそんなに難しいことではないだろう。
あの小説は佐伯のために書かれたのではない。何のために、ということを無理やり言えばあの重層的な物語はたぶん「希敏(ケビン)」のためにあるのだと思う。
佐伯は舞台に過ぎない。作品が佐伯を必要としただけだ。
あの作品では佐伯については何も書かれてはいない。
大分県出身の作家が佐伯を舞台にして芥川賞を取った、
じゃあ大分市でも小野正嗣が書けば結構な文学作品が生まれるのではないか? と考えるとしたらそれは短絡的だという謗りを免れない。
作中に不自然に登場する大分に最近出来た建物、施設。観光地や名産物。読み取れないほどに強調された方言。
本来は小説に出てくる土着性、地域性はエキゾチックな色気や不気味さが宿るはずだが、こう次々と話題の施設が出てくるとエキゾチックどころか気恥ずかしくてむずがゆく感じるものだ。
こういった大分的名詞を使うよう誰かに頼まれているんだな、と勘繰ってしまうのは私だけではないだろう。
普通、映画や小説に自分と関連するものが登場するのはうれしい。
タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」で唐突に日本の高速道路を走るシーンや、ヴィターリー・カネフスキーの「動くな、死ね、蘇れ!」でやはり唐突に聞こえてくる日本語の歌に温かい驚きを覚える。
時間が前後することもある。
私は高校を無理やり卒業して上京し、西荻と吉祥寺の間に住み始めた。高校生のころ観たジブリのアニメーション「海が聞こえる」で出てきた駅が吉祥寺駅だと知ったとき、同じく高校生のころ読んだ村上春樹の「国境の南、太陽の西」で主人公が昔住んでいた西荻窪のマンションはどれだろう、と探してみるとき、やはり特別な嬉しさを感じたのである。
このような例は他にもいくらでもある。
とにかく大分県民は「進撃の巨人」の作者が大分出身ということだけでも彼の成功を喜び、小野正嗣が佐伯の生まれということだけでも芥川賞受賞のときやはり喜ぶのである。
このとき重要なのは、作中の登場の仕方が受け手にとって偶然であること、且つ作り手にとってはそれが必要で必然であることだ。
だから「再訪のとき」で大分を説明するため、PRするためのように登場させた大分的名詞、方言は非常に残念であった。
これは受け手にとって必然であり、書き手にとって偶然である。
必然的な受け手とはクライアントのことであり、偶然の書き手とはライターのことである。
その意味で、「再訪のとき」は芸術作品である前に小説風プロモーションなのではないかと思った。
以上、私はちょっと勇気を持って書いた。
だから以下はちょっと根気を持って最後まで読んでほしい。
「再訪のとき」の一面は小説風プロモーションである。そう見える。
きっと共感してるくれる人もいるのではないか。
だからもっと考えてみる。
「再訪のとき」は大分合同新聞紙上での発表であるから基本的に、大分の人しか読むことがない。
大分の人に大分をプロモーションするだろうか、と。トイレンナーレのプロモーションが行われているのは明らかだが、「再訪のとき」もトイレンナーレのイベントの一部なのでそれは不適切とは言えないだろう。
となると、プロモーションする内容としては、西洋音楽、西洋演劇、外科手術、など大分の歴史を知ってもらおうとすることぐらいしか残されていない。
これは、何かあるな。
と、何度目かに読んであることに気づくのである。
作中の小説家でもある初老の教授がこう言う。
「大切なのはどう書くかです。(引用者略)本当のことを書く必要はありません」
「書くとは、特定の誰かに向けて書くことなのでしょうか?」
そして、本文。
「あの歌声が聞こえてきた。声が優しく響き渡り、その声が現実と虚構の境目のあいだを曖昧にする」
主人公の玲子は終盤近くまで実は何もはっきりと聞いていないし、何もはっきりと喋りもしないのである。
最初の一文から最後の一文まで、物語の通低音は、グレゴリオ聖歌である。
このことは大分的名詞の問題に捉われていると、聞こえてこなかった。
もしかして、「再訪のとき」は逆説的に言うとどこの土地にでも移植可能な物語として書かれたのではないだろうか。
「懐かしさ」すら感じない土地への再訪にずっと付いて回る、「澄んだ光と優しい影が溶け合う声=グレゴリオ聖歌」。
主人公、玲子は「ライター」であり、どうも虚構かもしれない「タクシー」に乗り込み、実りのない会話が続き、次第に玲子も演技者として自分を意識しだす。そのとき初めてはっきりと自分のことをしゃべり始める。
我々は「再訪のとき」という演技するタクシーに乗せられたのかもしれない。
そこでどれだけ大分的名詞が語られようと、車中の玲子とタクシー運転手との会話のようにどうでもいいことなのだ。
そういえば、大分的名詞の多くは名付けられていない。
21階に露天風呂のあるホテルは、何もJRおおいたシティホテルとは言っていない。
そこにある露天風呂もCITY SPAてんくうとは名付けられていない。
そこから見える海と夜景と白い煙も、別府の町と温泉の湯煙だとは語られていない。
ちゃんと名前でよばんといけんよ、と玲子の母の言葉の記憶が私にも蘇る。
作中の大分が全て演技しているとしたら、「虚構を通じて思いがけず真実に触れる」のだろうか。
逆に西洋音楽西洋演劇の日本における発祥の地、という史実は、作り話のように聞こえてくるから不思議だ。
小野正嗣は「再訪のとき」に小説風プロモーションという一面があることを自覚し、逆にその毒をうまく読み手に回らせて我々は酔う。
私はいま、どこまでが虚構でどこまでが真実か全くわからなくなってきた。
グレゴリオ聖歌は大好きな由布院の天井桟敷でいつも流れていたから、玲子には天井桟敷で最初にグレゴリオ聖歌を聞いていてほしいな、などと考え出すのである。
結局のところ、小野正嗣は芥川賞受賞第一作という貴重なカードを切って、我々大分人と戯れたかったのではないだろうか。だからこの作品は我々と作家本人のために、言い換えれば我々と小野正嗣の交感のために書かれているのだ。
小野正嗣のこの気前のよい遊び心が小説を読む間、終始我々を讃美歌みたいに包み込み、泡のような思念や記憶を呼び起こすだろう。
私はそれがいつか、ここの土や風から生まれるまさに大分の文学として弾けることがあればいいなと切に願う。
私はこれを書くのにどこからも何のギャラも発生していないので、トイレンナーレの告知もしない。
ただ、鑑賞者は同時に参加者でありうる、あるべきだ、ということを実感させるものだと「再訪のとき」を読んだ。
異論を聞かせてほしいと願うのである。
まずは、作家本人に、訊ねてみよう。
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