ORGASMIC REPRODUCTION トークセッション。 有賀慎吾×林千歩×ヴィヴィアン佐藤×丹下紘希の場合。

1月8日(水)から26日(日)まで開催されたグループ展、 ORGASMIC REPRODUCTION ~ざんねんな出産、しあわせな臨終~。

最終日前日に行なわれたトークセッションの模様です。

この難しいテーマを自分の中に受け入れる為の準備と葛藤、そして覚悟と想い。

有賀慎吾くん、林千歩ちゃん、ヴィヴィアン佐藤さんの3人に数々の世界観を世に送り出してきた映像作家、丹下紘希さんが鋭く切り込みます。

もしかすると一生考えなくてもいいテーマであると同時に、誰もが考えざるを得ない状況になる可能性のあるテーマ。少しでも今とこれからを考える機会になれば、そしてその機会を与えることがアートの存在意義であり、価値となれば嬉しいです。

 

 

『Orgasmic Reproduction ~ざんねんな出産、しあわせな臨終~』

2014年1月25日 トークセッション

出演:[企画] 吉田絵美、大山香苗 [作家] 有賀慎吾、林千歩、ヴィヴィアン佐藤 [ゲスト] 丹下紘希

 

吉田絵美(以下、吉田):最初に展覧会のコンセプトを話したいと思います。

大山香苗(以下、大山):今回の展覧会をするにあたって最初に企画の方が提案したのは変身とか変容というワードがありました。そこから社会へのタブーみたいなものに突っ込んでいくというものがありました。それをもとに有賀さん、ヴィヴィアンさん、林さんの三人が性の境界や、変容など様々なことがテーマとなるのではないかと思い、今回企画を進めてきました。今回のタイトルにもなっている有機的というワードは、出産と臨終を契機として様々な始まりと終わりを意味していて、特に生と死だけに限定されたものではありません。これらのことから再生産、芸術、人間がどう関わってくるのかを提示したものになっています。

吉田:サブタイトルは少し衝撃的なタイトルになっているのですが、あえて「ざんねん」という言葉を使っています。その言葉はある人にとっては「ざんねん」であり、ある人にとっては「しあわせ」かもしれないという決まった価値観に新たな視点や、切り込み、疑問を持つということができるのではないかと思っています。

大山:また、これは個人的な話になってしまうかもしれないのですが、企画の方からどんな作品が見たいのかというと、私は現実では見れないもの、見ようとしてもあえて見ないもの、隠されているものを求めています。このようなものを「アート」を通して見ることによって鑑賞者に混乱を起こすものが私は見せるべきと思っています。

吉田:丹下さん、作品を観ていかがでしたか?

丹下紘希(以下、丹下):それではヴィヴィアンさんが来るまでもう少しみなさんに聞きたいと思います。タイトルは皆さんで決めたのですか?

有賀慎吾(以下、有賀):そうですね。ここの5人+もう2人居ますが、何度か話し合って決めました。

丹下:タイトルがあって作品を作ったという感じですか?

有賀:基本的にはそうですね。ただ「こういう作品を作りたい」と先に言っておいて、だったらこういうのが合うんじゃないの?という感じで進めたりもしました。

丹下:出産シーンとかは多分、先にありましたよね。

有賀:そうですね。

丹下:有賀さんからお聞きしたいのですが、僕も十代の頃に自分が出産できないということがものすごくざんねんに思ったことがあり、僕の中では疑似出産してみようというところまでは行かなかったんです。有賀さんはそれをしていて、しかも寓話的でいろんな仕掛けがあって、親子ともシャム双生児になっていて、有賀さんが有賀さんのままで産むのではなく、なぜおっさんが出産しているのですか?

有賀:「なぜ、おっさんか?」というのは、前段階として他の作品にもあれは登場していています。そこを説明すると、こんがらがってしまうので省きますが、あれは女性ではなく男性で、年齢は中年くらいで、両性具有者、そういう人が出産する、というイメージです。しかも、いわゆる奇形ですよね。ただ単純に奇形なのではなくて、(映像作品の)手前に土偶があるんですけど、僕はあれを「双頭遮光器土偶」と呼んでいて、ふたつの頭の遮光器土偶って本当は存在しませんが、「こういうものが存在していた」という設定なのです。昔からこういう人達がいた、というフィクションです。土偶は古代。つまり「過去」ですね。奥の映像は「未来」です。現在は空けておいています。いまの状況っていうのは 過去によって説明されていたりするわけです。また、現在から未来が作られるわけです。先に「こういう未来があるよ」というのを提示するのがSFだったりします。そういうSF的な想像力で、もしこうだったらこうなるだろう、みたいなスタンスで作っています。話を戻すと、女性ではなく男性で、おっさんで、両性具有者で、頭が二つという普通の人体とは違ったカタチであるという性質であることと、出産というのは基本的に産婦人科などで他人の介助があって行われるものですが、あの作品では一人でオペをして、一人で産んでいます。しかも、いわゆる自然分娩じゃなくて、帝王切開で産んでいることに、いろんなニュアンスが含まれています。

丹下:途中で注射みたいなものを打つじゃないですか。あれは何なの?

有賀:あれは麻薬です。笑

丹下:痛みを緩和させる?

有賀:そうです。

丹下:先ほど奥の映像は未来だとおっしゃっていたんですが、それはどういう意味ですか?奥の映像だけちょっと分かりにくくて。(脊椎の作品を作っている映像)

有賀:あれは、未来という説明ではなくて、しかも今回の展覧会をするにあたって作られた作品ではありません。イメージとしては、芸術家が彫刻作品を作る際の、あるバリエーションのようなもので、例えば芸術家や彫刻家でもいいんですけど、あのおじさんのような顔の人がなにかを作っている。作り方はだいたい彫刻と同じで、針金の芯みたいなものに麻とか紙を巻き付けて、粘土や石膏を付けて、最後に塗料を塗るんですけど、最終的にはぐちゃぐちゃの生物とか死骸みたいなものになっています。

丹下:最初からあのような死骸を作ろうとしているのか、それとも完璧なものを作ろうとしたのだけどそうじゃなくなってしまったの?

有賀:あれは実は説明できないもので、撮る前には前提(素材)だけがあって、どういうことをしようと決めずに撮ったんです。なので、あれが何だったのかは説明できないんですよね。すみません。笑

丹下:生命体の何かだろうなという気はしていたんですけれど、あれが出産のこととどういう関係があるのか少し分かりにくかったと思いました。同じおっさんなのかということは思っていて、ただこちらも二つ頭があって、二つ頭があるということと、もっとリアルにやろうとしているというよりは誰かがマスクを被ってああいうことをやる。疑似出産自体が何か寓話性を帯びさせていますよね。そういう意味ではお二人(有賀・林)の作品からは非常に寓話性を感じました。ヴィヴィアンさんとはそこがちょっと違うと思っていたのですが、なぜそこである種のファンタジーみたいなものを取り入れていったのか。もう一つ言うと、ご自分で何かの儀式を作っているのではないかいう風にも見えました。

有賀:寓話性というのは今回だけではなくて、以前作ったものや、もうはじめからそうで、作品を作り始めた頃に、自分の身の周りで起きた強烈な出来事とか生々しい出来事とかを、そのまま作品にしなくちゃな、と思うのですが、そのまま作品にすることを凄く躊躇する気持ちがあって、だけどそれとは向き合わなくちゃいけなくて。その時に、現実とは隔離されたような、ファンタジーかもしれないですけど、物語みたいなものを作って、その中で代わりにというか、これを説明するためにこれがある、というようなカタチでずっと続けています。

丹下:現実の存在が僕らにとっては圧倒的なわけですよね。その現実の中で描かれるもの、描かれないもの、メディアとかも含めてなんですけど、そこにはいろんな倫理規定があって介在して、社会の中に知らぬ間に出来上がったモラルというものがあって、僕らは見れるものと見れないもの受け取れるものと受け取れないものがある。現実との差はずっと感じているわけですよね。現実の汚い部分とか薄皮一枚剥いだ下にあるおぞましい部分とかを、自分たちは知っているのだけれども、現実は全く感知しないかのように進んでいく世の中がある。これは僕の学生のころもまったく同じなんですよね。そこに違和感を感じてその差を埋めるような事が何かできないかなと思っていたのですが、僕らは(丹下さん・ヴィヴィアンさん)、現実に対抗できるものというものを、より現実的な手法、ダイアン・アーバスのとった手法もそうですが、こっちの方がもっと現実だよということを提案する感じでした。そうゆう風じゃないとひょっとしたら社会に伝わらないのではないかっていう思いがあったのです。ただ、おふたりの作品を見ているとそうじゃなくて、よりファンタジーに包んだ方がひょっとしたら伝えることができるのではないかというアプローチですよね、おそらく。なぜそっちの方が力を持つと思われているのか聞かせてもらっていいですか?

有賀:僕の場合は、そもそも現実というものが一枚岩のものではなく、実は沢山あるという捉え方です。僕の作品も、無数にある現実のひとつで、それを少しずつ膨らませているのです。

丹下:無数にある現実というのは有賀さんにとってどうゆう風に見えているのですか?レイヤー構造みたいに見えているのか、それとも散らばっているような感じなのか。

有賀:両方だと思います。散らばっていて、且つ、重ね合わされている部分もあります。

丹下:わりと繋がっているような感じ?

有賀:そうです。

丹下:より複雑な時代に突入しているなという気が今の話を聞いて思うんですけれども、僕の頃は逆に二項対立に近いかたちで、現実に対しての非現実ってものが結構大きくあるような気がしました。複雑な状態で可視化されているのはネットのせいですかね?

有賀:ネットは絶対的にありますね。

丹下:今の子どもとかって、ひょっとしたらおぞましい画像とかエロ画像も含めてですけど、小学生とかも簡単にアプローチできて見れちゃうじゃないですか。僕の頃は、そこはかなり秘め事だったんですよね。そこにあることは分かっていて、そこにアプローチすることも分かっていて、ただそれが社会に表面化しないっていう状態で、連なって横たわっているという感覚がお二人にはあるのかなと話を聞いて思いました。林さんの作品の説明を聞きたいなと思うのですが、僕は壁側のドローイングや絵コンテが面白いなと思いました。

あれは左側から順番に読み解いていくらしいのですが、なんとなくざっくりとしたストーリーがありますよね。そのざっくりとしたストーリーの方はよりファンタジーなのですが、ファンタジーが最初に頭にあって、そのファンタジーを現実の中に入れてみたらよりシュールな、もしかしたらご自分のお母様や犬が出てきているのかもしれないのですが、それによってまた別のリアリティが存在している気がしました。リアルに撮影してらっしゃる方は、タコの作り物とかに関してはもの凄くある種のチープさを生かしているような感じで自宅で生っぽい感じで撮って、明らかに作りこんで作られたものではない感じのドキッとさせる要素を感じるのですが、まるで日常生活の中で犬に指を食べさせるということがそこに転がっているよ、みたいな感じに思いました。それとあそこに描かれている脚本的なストーリーが飛んでて、あのストーリーには不思議な恋愛話がありますよね。あのストーリーを説明された方が皆さん分かりやすいかもしれない。

林千歩(以下、林):絵コンテには繰り返し同じような内容が続いていたと思いますが、映像を作るキッカケとなった元のお話があって、3.11の震災以降に大きなタコが捕れるっていうお話があって。被災地の方の漁師さんが、大きなタコが釣れると言って、そのタコを捌くと中から人間の指や髪の毛が出てくるという噂話があるんです。それを聞いた時に凄く衝撃を受けて、何かこれで作品を作って考えるキッカケになればいいなと思って、あのお話と繋げちゃったんですけど…

丹下:そしてその先にあるのが指人間?指太郎が産まれてくるという感じですね。あれも凄く寓話的で、桃太郎のようにタコを切ったら中から指太郎が産まれてきたという感じに見えました。日本の新しい昔話のようなことが繰り広げられているような気がしました。僕は今日初めて有賀さんと林さんとお会いしたのですが、林さんはこうゆう人だとは思わなくて、というのは最初に恋愛しているのは普通の若い男女じゃないですか。でも相手の男の子が津波に飲まれてしまった後に、彼の帽子かなにかを被って出てきたのがタコで、そのタコを切ったら出てきたのが指太郎みたいなもので、、

林:彼氏が津波に飲まれて居なくなって、そしてそのタコくんが彼氏を食べていて、タコが彼女と出会います。

丹下:タコが彼女とセックスをするじゃないですか。僕は北斎漫画を思い出したのですが。

林:はい。そこで春画の絵が入ってきます。

丹下:北斎の頃の話がどうだったのかは知らないですけれども北斎漫画を映画化しているものを見た時に、実際に女の身体の上にタコを置いて描いているというシーンがあったんですけれども、ひょっとしたら昔は本当にそうやっていたのかもしれないという気が少ししました。タコとかタコのような軟体的なものとのエロティシズムっていうのはずっとあって、そのエロティシズムが誘発しているグロテスクさというものを描いているのかなと思ったんですよね。一見、青春的なラブストーリーが最初にありつつ、その裏にある非常にグロテスクなもの、そこにはエロスがあってその象徴としてのタコで、、、そしてここで第三者というかおっさんが現れますよね。そのおっさんに持っていかれますよね。

林:そうですね。あのおっさんのストーリーはあそこで区切られていて、また別のお話なのですが、さっきお話しした指とか髪の毛が出てくるっていうストーリーをもとに何か作れないかなと思って、いくつか同じようなストーリーを作っているので、また別のお話です。

丹下:おっさんが指をエサにして釣りをしていたら、またタコが釣れて、その後が描いて無かったのですが、説明を聞くとまた津波があって彼女が飲まれてしまうわけですよね。彼女が飲まれてしまって彼女が居なくなり、彼女の指だけがタコの身体から見つかる。

林:絵コンテに描かれていた三つのストーリーは、タコに出会った日におっさんは彼女と結婚式を挙げていたのです。挙げていた日に津波が来たという設定になっていて、その彼女さん、妻になる人は津波に飲まれてしまって、結局またタコに食べられてしまうのですが、そのあとタコが現れて彼女のパーツを組み立ててくれるんですよ。で、甦るようなファンタジー的なストーリーに。嫌な内容からどうしたら幸せが生まれるかなと考えたら無理矢理そうゆうストーリーになりました。

丹下:絵コンテの中で面白いなと思ったのが、最初のとこの男女も最後のおっさんとのラブストーリーも、ものすごく劇的なストーリーで描かれていて、劇的というのはいわゆるロマンチックに描かれている。最後の最後はひょっとしたらタコが見せた幻想かも、と思いながら見ていました。そのものと中で起こっていることのギャップ、お二人に共通するおっさんというもの。僕もそうだったのですが、十代の頃に自分の映画に同世代の人は絶対に出したくないって思っていて、おっさんに対する憧れがありました。浮浪者とかジジイとかを使っていたのですが、その当時の自分には手に入らないものだったからであって、なんとなくそこに対する背伸びみたいなものがあったんですよね。まだ知らないものがそこに存在しているのではないかっていうことを思っていて。ただ逆に言うと、今あるけれども、ある時には分からなくて失ってみて初めて分かるみたいなものが実は若さだったりして、それがひょっとしたら死ぬっていうことも同じような事が言えるのかもしれないのではないかっていう気がちょっとします。普段から自分は死ぬんだ死ぬんだと思いながら生きている人はいないわけで、それは死から遠いから生き生きとできる部分があるけれども、実は自分たちの生の延長線上に死があるということを忘れてはいけないということは常々思っていることなのです。でもどうしても憶えてはいられない。おそらくそうプログラムされてしまっているけれども、そのように生きていて良いのだろうか、という疑問は僕も思っていることです。ではどうやったらそれを憶えていられるのか。そこで取る手法が、みなさんがやっているような寓話的な手法なんじゃないかなと、お二人の作品を見て思いました。林さんに聞きたいのですが、犬のえさにするっていうのはどんな意味があるんですか?

林:あのペットはお家で飼っているワンちゃんなんですけど、あの子はタコと犬のかけ合わせで産まれた新しい雑種みたいな設定になっていて、その子に人間の指を食べさせて育てています。その子がしたウンチが指人間になるみたいなストーリーになっているのですが、そこまでは描けていなくて、絵コンテにもそこまでは描けていないのですが、その一部として作ったものになっています。

丹下:かなりマッドサイエンティストな感じのもので凄いとこまでいっていますね。笑。僕が思ったのは猟奇的な感じ、本来なら人間の指を集めて犬に食べさせるという非常に狂った人の日常を描いているのかなと。

林:でもそういう感じです。もともとそこまでは考えていませんでした。作っているうちに思いつきました。 あの作品に出演しているのは家族なんです。おばあちゃんとお母さんとペットという自分の身内の人に出てもらっていて、演技とかも、切り方も「激しくやって! 殺人的に!」とかいろいろ指導して、たぶん嫌な気持ちになりながらやってくれたと思うのですが。もしかしたら身近な人が明日全くの別人になってしまうかもしれない、という恐ろしさが自分の中にあって、そういう妄想の世界みたいなのが、身内ではなくても友達とか近所の人とかがおかしくなってしまったことを考えると、恐ろしいということがあるのです。それをちょっと加えたりしています。今おっしゃっていたおかしな人たち?

丹下:そうそう。猟奇的な殺人者とかは、映画で描かれる場合はもっとこわーい雰囲気で描かれるんですけど、実際はこんな風なのかなと思いながら、このくらい平気にやっているに違いないぞ、と思いましたね。というのと同時に、僕が感じたのは藤原新也が昔インドで撮った写真で死体を犬が食べている写真があって、人は犬に食われるほど自由だっていう一言が書いてあるものがあるのです。そこには凄く何か感じるものがあった。ついつい人間が偉いというポジションで世の中できていて、人間を中心にものを考えるという非常に利己的なかたちで世の中を見ているのだけれども、全然実はそうではないという視点が、本来地球にはあるということが伺える写真でした。その時に自分が食べられるというようなことを想起して、非常にほっとした感じがありました。今日、僕、実は葬式帰りで、普通に火葬だったのですが、僕は学生の頃、火葬になるのが嫌で、友達に僕が死んだらこっそり山の中に持って行って、死体をカメラでインターバル撮影してくれって頼んであったんです。

林:凄い。笑

丹下:朽ちていって、そこから植物とかが生えていく様子を最後の一作にしたいということを友達のカメラマンに頼んでいました。その当時の自分が死ぬっていうことのリアリティもない状況での話ではあるのですが、当たり前のように火葬されて当たり前のようにお香典とか持っていかれて一連の儀式をすること、それにスムーズに参加するから不安が取り除かれていくと思うのです。だけど思いっきり不安でいてほしい。自分の友達には大迷惑なんだけれど思いっきり不安を感じてくれと、気持ち悪いと思ってほしい、と当時の僕は感じていました。そうゆうような、指がばーっとあって、それを犬が食べていて、普通のお母さんが「ご飯よー」って言ってあげているのが、思いっきり気持ち悪いのだけれど、作られたものだと分かりながらも、どういうことに抵抗、あるいは対抗してあれを作られているのかなと思いました。実際に死や葬式などに直面した経験はお二人はあるんですか?

林:あります。

丹下:その時の感じはどのように受け止めたんですか?

有賀:僕の場合は親父ですね。

丹下:どういう受け止め方をしたんですか?

有賀:受け止められませんでしたね。それを、今もずーっと引きずっているという感じで作品を作っているのかな、と思いますね。一番思ったのは、二度とコミュニケーションが、今 後一切成立しないっていうのが嫌で仕方がなくて、それがどうにかならないかなと。そういう気持ちが、例えば死後の世界を生んだのだろうし、寓話とかも生み出したんじゃないかなと思いますね。僕の場合は、その時は自作文字みたいなのを作りました。日常的な方法では届かないだろうから、オリジナルの何かを作ろうと思ったんです。日本語を表記できる文字を一式作って。それで親父が死んだ時に、親父とずいぶん長いこと話してなくて、親父が倒れて、僕が病院に行った時にはもう話すことが出来なくなっていました。脳梗塞でした。話しかけて、多分理解はしていると思うのですが喋れなくて、言語を介したコミュニケーションは出来なくて、ただ手を握るとか、ずっと話していると涙がつーっと垂れるとか、そうゆうコミュニケーションしか成立しませんでした。ただ、それでも尊いなと思いました。たとえ普通のコミュニケーションが出来なくても、そこに居るということが。亡くなったとき、言えなかったこととか話せなかったこととかを全部手紙に書いて棺に入れたんです。その時はなんか伝わったような気がしました。でもその続きをもう一度書こうとした時に、書けなくなってしまったんですよね。なぜならその書いたものをどこに送ればよいのか分からなかった。

丹下:文字は可読可能なものなんですか?

有賀:表があって、それを照らし合わせることで読むことはできます。それから、僕はいろいろなカタチで「この現実だけじゃない」ということにしたいのです。

丹下:今の話は凄く分かる気がするのですが、おそらく普通に考えればお父さんのそうゆうことがあって、今の話を受け止めると、そのシーンとかはもっと綺麗なことで表現することも可能だったのではないかと思います。だがそれをせずに、ある種の禍々しさとか変態性というものを加えながら作り上げるのはどうしてですか?

有賀:・・・・。ちょっと考えさせてもらって良いですか?

丹下:おそらくこの辺は三人に共通しているのではないかなと思うのですが、美しさと醜さの戦いと言うか、そこにある美しさというものか圧倒的に世の中に氾濫してる気がします。そこに対して、実はそうではないかもしれない、醜いと一般の人が思っていることに対して何かの美しさがあるのかもしれないということをどうにか提示できないか。おそらく死や生というものの本来そこまで綺麗なものじゃないけれども、美しい話として。ビジュアル的には当然エグいわけで、それをそのまま伝えることは許されていないという、その感じに対してのことがみなさんあるのかなと思いました。ただ個人的な感覚の違いがあるなと思っていまして、三者三様で、その感覚の違いがどこに立脚しているのだろうというのはなんとなく気になったことです。なぜこうゆう手法をとったのかという。この先どこへ行こうとしているのかっていうね。こうゆうことを提示して、先ほど大山さんが言ったようなある種の混乱を世の中に与えたいっていう話がありましたけど、なぜそうゆうことをさせて、みなさんがそこから何を生みだそうとしているのかということが気になりました。つまり「アート」が社会に対して何かしらブレイクスルーできるのなら、どういうことなのかということでもあるのですが。

有賀:僕の場合は「この現実を変えよう」という意思はあるんですが、だけどそういうダイレクトな手法はとっていなくて、全然違うところからとってきていて。可能性みたいなもの、「いまはこうだけど、もしかしたらこうなる」みたいな可能性みたいなものを提示することで、現在(現実)がちょっと変わる、みたいな。SFやファンタジーとかってそうじゃないですか。ファンタジーの世界は全く別の隣り合う世界みたいなものがあって「そこのお話ですよ」ってことで、例えばハリーポッターだと 、現実のロンドンの駅のホームに「抜け穴」がありますよね。SFの場合は違って、今の現実が「もしもこうなったら、こうなりますよね」っていう話を提示していて、 そういう話を今見たりとか聞いたりすることで、今のこの現実が変わる、ってことがあると思います。SFとかファンタジーとかそういうやり方に近いです。ダイレクトなのではなくて「現実に及ぼす影響」というのがそれに近いです。

丹下:林さんどうですか?

林:有賀くんはSFって言っていたんですけれども、私の場合はどちらかというとファンタジーに近くて。ちょっと忘れちゃったんですけど、戦争とかどうしようもなくて辛い時に「あーこうだったらいいな、あーだったらいいな」っていう風に苦しんでいた人たちが作った妄想の世界がファンタジーの始まりって聞いたことがあって。今起きている現実の辛いものとか怖いものとかをどっちかというとファンタジーのように面白おかしく見せて、クスッと笑えるようなものにしたいというのがあって、いつも作っています。ただ今回の場合は、いつもと違う感じになりましたが。

丹下:結局こういう作品が生みだされてしまった背景にはひょっとしたら現実の世界の社会に何か歪みのようなものがあるから、こういうような作品になるという風に捉えることができると思いました。例えばインドで苦しい生活を撮影した作品なんかをサタジット・レイが撮ったけれどもインド人は誰も見ない。でも外国人は評価する。インドの人たちが見るのは苦しい生活を一切見せない「踊るマハラジャ」みたいなものになっていて、それは世の中があまりに辛いので逆の方に行ってしまう。大衆表現というのはおそらくそうゆうものなのです。林さんの場合はそのような大衆表現というよりは非常に個人的な感覚の中で練り出されたものだろうなというとこがあるので、個人的に抱えていることと社会に起きている歪みがミックスされてそれに対して生み出されているような気がしました。そういう意味で言えば、林さんから見ての現実社会はどうゆう風に見えているのですか?

林:現実社会のことはあまりよく見ていないです。笑。見ないようにしているのか、ただ見ていないのかちょっとよく分からないんですけれども。あんまり触れないようにしています。ただ画像とかの世界の中でネットに散らばっている画像とかを見て現実を見ているというか、、なので震災についても、実際に経験したわけじゃないのですが、家に居て今起きていることをモニターの中で見たりとか。どちらかというとイメージで全部見ている感じですね。言葉とかよりも。

丹下:僕が最初の方に話した、有賀さんの話にもありましたが、沢山の現実が散らばっていて連なっているようなカタチというのと、その中の根っこに自分では本当か噓かを審議できないものたちが沢山散らばっていて、それすらも現実として隣接していることが、なんとなくこの時代からなのかなと思いました。僕の頃はそれは無くって、っていう話でしたよね。先ほども言ったような真実か噓かも分からないものたちに僕たちが侵されていて、そこにはおそらく画像も含めて情報がかなりリアリティを持った状態で描かれているものについつい騙されてしまうということが、Facebook上でもTwitter上でも起こっていると思うのですが。Twitterなんかはね、この前小泉前総理のなりすましとかありましたけど、それも含めて現実がどこにあるのかがますます分からなくなっているところでの、自分なりの現実を出しているということよりかは、逆にファンタジーの方が自分たちにとってはリアルに感じているという状況なのかなと、思いました。

林:そうかもしれない。

有賀:現実っていうのが、さっきも無数にあると言ったんですが、ある個人がいて、その彼が現実だと思ったらそれはもう現実だと思うんですよ。例えば、Twitterの小泉さんのなりすましアカウントを、小泉さんだと信じた人がいたとして、それは彼の現実になってしまうみたいな状況なんじゃないかなと思います。

丹下:ちょっと言葉を変えると実感がある現実ってことかな。要は、頭では、頭はハッキングされちゃっていると言ったら変だけど、沢山のリアリティがあって、それを沢山の現実として受け止めている。だけれども身体として実感を持つということがそれによって大分失われているという現実がある。身体として実感を持ちたい、が故に疑似出産をされているのかなとか、身体性の部分に皆さんが何かしら引っかかっているのではないかなという気がしました。身体性を失っていると言っても良いような現実があるんじゃないかなと。

有賀:その通りで、僕は身体ということに凄く興味があります。セックスがしたいであるとか、お腹がすいたとか、眠いとかということは素直に感じるんですけど、この「感じる」こと自体が嫌で、その原因はこの身体があるからで、本当はいらないんです。この身体が交換可能で、例えばプラスチックやシリコンや金属だったらよいのに、と思うわけです。SFの世界はそういうものをちゃんと描いてくれていて、例えばA.I.の研究が進み、無機物から人間の意識に近いものを生み出せたり。人間も生物学的なニューラルネットワークの中で意識が発生しています。先ほどの「現実感」というものも、脳からすれば疑似体験であるわけですよね。そういうようなことを前提として、身体やいろいろなことを考えて作品を作っています。頭がふたつというのも、アメリカに頭がふたつの有名な姉妹がいて、彼女たちを見た時、凄く元気そうだったのです。けど、放っておくと脊椎が歪んじゃうらしいんですよね。それを矯正するための手術をしたみたいです。彼女達を見たとき、ちょっと誤解されるかもしれないですけど「羨ましい」と思ったのです。なぜならば、僕には彼女たちみたいに、他人、私ではない誰かと何かを共有する時に「言語」とか「触る」とかしかなくて。相手が感じていることをダイレクトに感じることができるというのは、もしかしたら素晴らしいことなのではないか、そう思って、あの形態の作品を作りました。奇形と言ってもいろいろあって、僕が作品の登場人物の頭をふたつにした理由はそういうところにあります。

丹下:コミュニケーションの問題というよりかは僕があれを見て思ったのは、自分と他人との境界線の問題じゃないじゃないかなという気がしました。さっきの羨ましいという表現はどこまでが自分でどこまでが他人かということが世の中にははっきりとしないものが本来ならばあるのではないかと、自分が凄く好きな人やもう自分と呼んでもいいような存在があるのかもしれないし、自分が凄く好きなものは自分の分身と呼んでもいいようなものがあるのではないか。というところでヴィヴィアン佐藤さんです。

ヴィヴィアン佐藤(以下、ヴィヴィアン):すみません。7時からかと思っておりました。笑

吉田:では簡単にヴィヴィアンさんにも、、

丹下:簡単に作品の説明をしていただけたらと。僕はいくつか話のとっかかりはヴィヴィアンさんにはあるなと思ったのですが、ダイアン・アーバスに対しての特別な思いとかもあると思うのですけれども、その辺の話から話していただいてもいいでしょうか?

ヴィヴィアン:今回のこの作品もほとんど作りおろしの作品です。今回はまず展覧会のテーマが与えられて、そこから作品を構築していきまし た。私は実は元々「建築家」(「非建築家」という場合もあります)です。「建築」と言っても、「建てない建築」という独特なスタンスです。「建てない建築」というものが一体どういうものかというと、「建物」 と「建築」を別のものと考えているのです。いかに「建てる」ことなしに、「建築」を作るか、という事が命題です。人が使うもの、英語の「Building」が「建物」だと思っています。それと「建築」は別のものと考えていて、「建築」は「Architecture」。それは「考え方=方法」もしくは「関係性」なのではないかと思っています。例えばいろんな「建物」が建てられる時に、平面図や立面図、断面図、パースなどさまざまな図面がまずは描かれて、そのあとたくさんの模型というものが作られます。そして最終的に「建物」が作られる時に、模型やさまざまな図面を 見て作られていくわけです(模倣)。そうなってきますと時間的に見ると「建物」自体が一番最後に出来る訳ですから、「建物」自体が模型の模型なのではないか、と思うわけです。そうなると一連の「建築」と言われているもの(過程)の中で、どこ がオリジナルなのか、それに全て同一性が保たれているのかということがテーマになってきます。私の展覧会という形式も一つ一つの「作品」ではなくて、「考え方」で あったり、もしくは「形式」というか、「メソッド(方法)」の一つの断面図みたいなものなのです。これで完成ということでもない。あえて作品は販売はしておりません。

例えばジュエリーや宝石や金を材料に使用した場合、材料そのものの価値に揺るぎないものがあって、それにデザインや意匠、作家性やブランド性が付加されて、ものの値段になっていくわけです。あえて値段に置き換えられないようなものを多く作っています。私の場合は作品を展覧会の一つの断面図として考えています。今回はタイトルから考えていったわけですけれども、その題名に関して、だんだん展覧会が近づくにつれて不安になってきました。この内容で傷つく人であったり、不快に思う人であったり、怒ってしまう人が居るのではないか。そこまでの方々を説得出来る強度が含まれた作品が果たして作れるのかどうか。冗談のような作品であってはいけない わけですよね。この題名もインデックスの問題なのですけれども、そのまま展覧会のテーマに当てはめることができるのかどうか。題名というのはひとつの文学だと思います。まず、「ざんねんな出産、しあわせな臨終」というのは一体誰目線なのかということです。例えば小説や映画に多く存在する、自叙伝的、自伝的なものなのか。もしくは誰かの生涯を客観的に追っているようなものなのか。そういう俯瞰的な、神のような目から見たものなのか。それとも主語が一人称なのか二人称なのか三人称なのかということで、相当意味合いが変わってくると思います。

例えば「私のざんねんな」「私がざんねんな」「私のしあわせな」「私がしあわせな」(ざんねんなのは「私」か「私の子供」なのか)、もしくは「あなたのざんねんな出産」「あなたのしあわせな臨終」、「彼のざんねんな出産」「彼のしあわせな臨終」、、、だいぶ意味合いが変わってきます。その中で出産と臨終という二つのかぎ括弧があって。このダブルバインドの外なのか、産まれる前の立ち位置なのか、亡くなってからの立ち位置なのか、それによってもだいぶ変わってくるのかな、という気がいたしました。私の場合は、まずなぜ実在の写真家「ダイアン・アーバス」なのかということですが、例えば「ダイアン・アーバス」に象徴されているものは、フリークスやダウン症、性倒錯者、見世物小屋の方と仲良くなって、そういう方々を理解し、尊敬し、撮り続けているという姿勢や哲学なのですね。非常に畏敬の面もあるのですけれども、彼らは生まれながらにしてそういう困難を背負っていて、困難に立ち向かうことでそういうことをクリアしているということですよね。ある意味「貴族」なのではないか、と彼女は結論づけています。確かに彼女の写真は今でも賛否両論の立場があるかもしれないのですが、写真史や美術史の中でも非常に重要な作品群だと思っております。要するに「写真を撮る」ことや人を「見る」ということは、人の欠落部分であったり普通の人とは違ったところを最初に見てしまうことなのです。私自身もそう思っています。見世物小屋なども社会的に見たらどうなのか、またアート的に見たらどうなのか。アート的に見た場合、非常に自分にとっては興味のあるテーマで、その興味は一体どこから来ているのかということ。自分自身への問いでもあります。

それともう一つ、今回の展覧会は「ダイアン・アーバス」のことともう一つのテーマがあります。二年くらい前から日本で新型出生前診断というものが広く行われだしています。要するにお母さんの血液から産まれてくる赤ちゃんの染色体異常が診断できるというものです。その場合は26対人間には染色体があるのですけれども、新型出生前診断では13番目と18番目と21番目の染色体異常を調べることができます。トリソミーと言って普通は二つなのですが、21番目の染色体が三つになった場合に、ダウン症の子が産まれます。18トリソミーというのは口唇裂・口蓋裂(みつくち)であったり、手が開かない子であったり、手相が変わっている子が産まれる可能性が多い。13トリソミーというのは例えば眼球が無かったり、そういう子が産まれる可能性が高いのです。去年くらいから日本でもその検査が割と公になってきています。しかし、染色体異常というのは遺伝するわけではないのです。だから最近なら原発かもしれない、もしくは公害かもしれないけれども。そういった外的要因ではなくて、誰にでも産まれる可能性はあるというものなのです。もし診断を受けた場合、陽性が出た時に産むのか?産まないのか?もし産んだ場合、育てることができるのか?育てられない場合、社会には受け皿はあるのか?といった現実の問題が出てきます。私自身そういった社会側の認知や受け皿の拡大の活動を手伝っているので、興味がありました。。。

去年の12月くらいから中国の遺伝子調査の大手の会社が日本に参入してきて、安く検査を受けられるようになったのですよね。そういう時に子どもを産むのか?産まないのか?という倫理的な判断であったり、そういったことが現在深く問われている。そういうことを前知識として知ってもらいたいのです。例えば統計上では40歳だったら100人に1人という割と割合は多いのです。そういった事実と反して、異形のものに惹かれる自分も正直います。そういった矛盾し、不可思議で納得のいかないことでもあるのですが、そういうものを整理したい、もしくはあからさまにしたいと思ってこの作品を作りました。

丹下:最近の染色体異常を発見して、というのはかなり一般化していまして、去年あたりのNHKスペシャルか何かで特集していて、その時も異常が見つかった親がどうするのかということを追っていくのですが、最終的にはテレビでは産むということを取り上げていました。テレビでそういうことを取り上げる意味は大きかったかなと思います。あれが産まないという判断を取り上げていたらどうなっていたのだろうと社会に対しては思います。産むということを取り上げた時に、何が判断の基準になっていたか、最終的には自分なのですが、結局は親との話し合いなのですよね。親御さんが決めているケースが僕は非常に多いのではないかなと思いました。

ヴィヴィアン:お母さんのお母さん?おばあちゃんとか?

丹下:そうです。おばあちゃんとかがしゃしゃり出ているんです。「どうせなら検査しなさいよ、あなたたち。」という風に言うわけです。軽い気持ちで やってみたら、実際そういう結果が出てしまった。「どうするの?私たち先に死ぬわよ。面倒見れないわよ。」というように畳み掛けるわけです。その現場もNHKスペシャルではやっていたのですが、これはしんどいことをやっているなと思いました。それでも良いから産むというカタチになるよりも先に大変なことの方が羅列されてしまうわけですよ。

ヴィヴィアン:非常にお金もかかりますしね。

丹下:そうです。条件としては結構大変なことが羅列されてしまう。だけども産むということや自然に産むということが何なのかということがそこでは問われている。自然ということは不完全だということもするのですが、そこに完全性を求めていく価値観の基準になるものが社会の中で構築されてしまっていて、それが閉塞感に繋がってしまっているような気がします。そういう中で私たちが持っているモラルというものとタイトルのいかにも作られた「しあわせ」ではない「ざんねん」なものというのは、実は凄く自然なこととして捉えて自然がある種の歪みを持って初めて自然として成立しているものなのだと。どんどん美しくはなっているように一見、見えるんだけれども、それが引き起こす影響とは何なんだろうということに不安を覚え始めている。僕たちが思っているモラルの中での、「しあわせな臨終」もそうですね。それは悲しむべき話ではないということも自然な話になるんです。特に有賀さんとヴィヴィアンさん、僕も含めてどれだけ頑張っても出産は出来ないことに対しても思いがあります。「しあわせなもの」と「ざんねんなもの」の対比が世界を構築していくものになっていって社会に還元されていくといいなぁと。社会が目指している何かしらの完璧なものというのが危ういということに対しての警鐘になるといいな、とヴィヴィアンさんの作品を見て思いました。

あと裏に奇形の人の写真を展示してあるということも、ちょっとした仕掛けだと思うんですけれども。トッド・ブラウニングが映画「フリークス」を制作した頃に、「ピクルスバンク」というタイトルの奇形の赤ん坊のホルマリン漬けを展示した初の美術展覧会があったんです。ピクルスというのはきゅうりのピクルスに例えているんですが、この展示がかなり衝撃を受けたということを僕は文字で読んで知ったんですけれども、ただそこに衝撃を受けた人たちが何に衝撃を受けたのか?何を感じたか?というのが、ある種の排除ではなくなにかしら尊敬の念がありつつ、畏怖の念がそこにあったのではないかなという気がしていました。僕はキリスト教文化の中で、もともと天使とかの存在は異形なものとして捉えられていたという話を聞いたことがあるのですが、怪物として捉えられていた。つまり三歳未満に死ぬ子が凄く多くて、要は洗礼を受ける前に死ぬ子は人間としてみなされなかった。怪物だと捉え、その怪物が天使というような扱いになっているという話を聞いたことがあります。少し異形なものや産まれてくるものに対して何かしら宗教的に道徳として解釈をする必要があったのではないかという気がするんですよね。受け入れるために美しいお話として自分たちの中に入れ込む。そういう必要があったように思います。なのでお二方もファンタジーの手法を取られているのかもしれないと今の話を聞いて思いました。

ヴィヴィアン:「異形」のことで言いますと靴の型や靴下の作品があります。それは、人は(個人)産まれる前から足のひな形というものは出来上がっていて、それに合わせて靴や靴下や 洋服は作られているのですね。でも同じ足で産まれてくる子はいないわけですよ。顔もそうですし。一体何が「平均」たらしめているのか、何が「異形」とみなされるのか。ガラスのようなアクリルの作品は、ダウン症の方の染色体と平常と言われている方の染色体を重ねて、あれは顕微鏡で使用されるプレパラートに見立てています。それぞれの染色体が下に落ちてバラバラにミックスされるというものなのです。染色体自体は肉眼では直接見えないものです。見えないところに原因というか、一つの理由と言うか、異なるところがある。目に見えるところにある「異形」と、目に見えない空間の「異形」のところ、そこもテーマにしたかったというのはあります。

丹下:靴にせよ靴下にせよ大量生産によってかたちが作られていて、そこに人間が当てはめられていくようなイメージというのは怖いような気がしました。一昔前は多分一人一人に合わせて、オートクチュールじゃないですが職人さんがその人に合わせて作っていたものが今はそうではない、人口増加やコストの問題もあると思いますが。そこに凄く僕は危うさを感じてしまうのです。

ヴィヴィアン:今回誰も妊娠したことはないし、妊娠の可能性はありますけど、出産も子育ての経験もない。そういう人間たちがこのタイトルでどういった展覧会ができるのか?作品ができるのか?ということも気になりました。一つのファンタジーになってしまうのですよね。経験のない者がそういったものを作れるのか?語れるのかどうか?ということです。語るべきではないのか。それとも経験がないからこそ語ることができるのではないか。それは例えば戦争なら、戦争を経験したことがなくてもそのことを語るべきなのか、語る資格はないのか、そういうことにもオーバーラップしてくるように思いました。

丹下:戦争とかよりも、一人一人が何となく運命的に備わっている気がします。出産と臨終、特に臨終というのは全員に平等に備わっている。戦争とかとは違った身近なものに感じるのはどうしてもそこに我々が身体を持って生きているというということに繋がると思うのです。そこに対してのモラルを問うているタイトルだなという気がしていて、自分たちが思っている幸せとは何なのだろう?ということが問いかけられている、ということが最初から感じていたことでした。何が「ざんねん」で何が「しあわせ」なのかということがあるかなと思います。最後にその辺を一人づつお伺いしたいのですが。

有賀:丹下さんが先程から「自分が妊娠できないことがざんねん」とおっしゃっていて、それは僕も同じで、ある時に「なぜ僕は妊娠できる能力がないのだろう」という欠落を感じました。今、まだ確立されていないですが、男性でも妊娠できる技術があります。それは人工臓器みたいなもの、人工子宮を体に入れて、体外受精された受精卵をそこに入れて育てる、というやり方で、凄くアーティフィシャルなものだけど可能なのです。一種のサイボーグですよね。僕が興味があるのは、今後、生命倫理であるとか、そういうものがどういう方向に流れていくのかということと、現在それをどんなふうにコントロールできるのかな、というところにあります。「ざんねんな出産、しあわせな臨終」というタイトルが決まって、ヴィヴィアンさんが不安だとおっしゃられたあとに、林さんがお母さんに相談した時 、「ざんねんな出産なんてない」と言ったらしいです。出産は「しあわせ」なものであって、「ざんねんな」という形容詞は付かないのだ、と。それもそうだと思うのですが、僕はそうは思わないわけで、いろいろな形容詞が付くと思うのです。死も生もそういう前提みたいなものがあってもいいのですが、そうではない場合も考えた方がいいと思います。なぜなら「ない」とすることで排除されるものがあるからで、それが倫理的な部分で暴走したりするのではないか、という危惧があるからです。

林:さっき有賀くんが言っていたようにお母さんに「ざんねんな出産ってどんな出産だと思う?」って相談した時に、「ざんねんな出産なんてない」って直ぐに答えが返ってきて、確かに「ざんねん」とか「しあわせ」というのはどんなカタチでも、その人その人の考えやその人の目線で決まることだなと思っています。自分は出産もしたことないし、臨終もしたことがないので未だによく分からないのですが、死んでしまうかもしれないっていう経験はしたことがあって。でもそれでも生きていられたというか、難しいのですが・・・。違う話になりますが、お母さんが妊娠している時に私はもともと双子だったのです。お母さんのお母さんも双子でした。なので双子が産まれる確立が高いのです。でも次の検診の時に一人になっていたんですよ。それが私だったのですが。なんか吸収してしまったみたいで。今生きている私自身はもう一人を吸収した方の私なのか、もしくは吸収された方の私なのかが分からなくて。誰かになりたいとか自分以外のものになりたがるのも、もしかしたらそういう影響があるのかなと思っています。全然違う話なのですが。

丹下:いやいや、そこは何かあるのではないでしょうか。科学的なところですけれども、そこに居たはずの、もっとも近い他人として自分の中に備わっていたといっても僕はおかしくないと思います。出産の時にみんなお母さんが考えることは、ひょっとしたら不具者とか異形の子どもが産まれるのではということで初めて他者の存在を知ると言ったら変ですけど、弱きものも含めての他者の存在を知るわけですね。障害がある子とかの辛さみたいなのはまったく考えたこともなく生活してきたのに、自分が出産する時に初めて不安に思い、そうゆう人たちの生活や人生を考える。それはなぜかというと自分に降り掛かる可能性があるから。自分のことを自分事としてそうやって他人事のように考えられる素晴らしいチャンスではあります。では奇形の子が産まれてきたからといって「ざんねんだったね」という言葉が当てはまるかといったら、それはそうではないような感じがするのです。もしその中で死産になってしまった場合、「ざんねんだったね」ということはよくよく言われる話なのですが、その時に得たものは決して無駄ではない。小さい小さい命だけれども教えてくれたものがあると思います。そこでの他者の存在というものに対しての道の開かれ方というのかな、そうゆうものは感じますけどね。作品自体というよりかは多分、取り組む過程でもそういうことに触れなきゃいけないことがあったのではないかと思います。ヴィヴィアンさんは特に書かれていることを読むとそこが凄く強くあったのかなと思いました。

ヴィヴィアン:昨今話題になっているのは新型出生前診断ですよね。あとは赤ちゃんポストの問題ですよね。そういった子どもを産んでも育てられないとか、その存在があった方が良いのかとかね、そういったことを考えます。私自身も変わった身なりというかマイノリティなのですが(笑)、だけれどもやっぱり社会的なものや同時代性、現代に生きている私たちに同じように問題意識が、意識的にも無意識的にもあると思うのです。そういったことも知りつつ、知って上で「ダイアン・アーバス」の写真を見るという経験。そういったことが必要なのかなと思いますよね。今日は前半は3.11の話とかしたの?

丹下:そんなにしていません。作品の話で一杯一杯になっちゃって。

ヴィヴィアン:ちょうど地震があった時に津波と原発事故といろいろあった時のことについて。私出身は仙台なのです。仙台はもともと地震が多いのです。高校の同級生で未だに見つからない方も居るのですが、いろいろな自粛が日本全国でありましたよね。ライブハウスとかイベントとかお店など。「アート」 とか「音楽」とかは今やるべきじゃない!みたいな感じで自粛されていました。しかし、そうではなくて非常時だからこそ必要なものが「アート」だと思うのですよね。非常時に必要ではないものは、通常の時にも必要ないものだと思っていて、そういった時にこそ「アート」というものが必要になるのかなって思いました。何が言いたいかというと、私たちはみんな戦争を体験していない人たちがほとんどですし、戦争もまた「アート」が必要になる一つのものだと思うのです。

私たちは 3.11でもう一度「アート」をやる権利を得ていると思うのです。それを手放すというのは非常に馬鹿げていることで、やはり同時代的なことを意識しつつ作品を作ったり考えなきゃいけないと思っています。例えば「アート」に関しては正しさとか、いわゆる「パブリックコレクトネス」ですよね。社会的・政治的に正しいことというもの があり得るのか、そうじゃないものはどうなのか。私は「アート」の自律性というものを考えていて、なるべく「アート」は自律すべきだと。つまり善悪が分かつ前のものであってほしい。もしくは人間が人間らしくある、尊厳のようなものであってほしいと思うのです。もしかしたら津波の音や光景がみんなのトラウマになっていると聞きます。本当に恐ろしくて怖いものだと思うのです。だけれども、それほどトラウマになるほど恐ろしいほど、美しいものだったかもしれません。善悪はもちろん大事なのですけれども、多角的に多義的に捉えられるべきものなのかと思っております。「アート」の必要性やアーティストのやるべきことはその領域だと信じております。

丹下:東北の和尚さんと話した時に、どうしても忘れていってしまうという感覚的なものですね。この失い方というのは原発のこともそうなのですが、僕も毎日考えていて、考えられなくなるわけですよね。どんどんしんどくなるのです。考えることも憶えていることもしんどい。どんどん忘れるということが人間の美しい部分だという人も居るし、そうゆう機能を果たすこともあるのだけれども、本来ならば憶えていたいし、目の前にあることをなんとかしなければということで、進んでいきたいのに時間が経てば経つほどそれが困難になってくるという状況が今あるのです。ものすごくその辺りに理不尽なものを感じるのです。「アート」は自由を確保する最終手段のような気がしていて、善悪が分かつ前のとおっしゃっていましたが、まさにその通りだと思います。「アート」が自由でなくなった瞬間に「アート」ではないというような気がするので、そこに対して僕は人間が作ってきたもの全てを越える存在であって欲しいなという風に思います。今現在我々がやらなければいけないものというのは自分たちがモラルに反したことをやって、それを正当化するということでもないような気がするので、そこには何かしらの投げかけと、それがどうゆうことなのかというのを考えて欲しいということがあります。みんなが考えることをやめてしまっているというか、さっき言ったように忘れていくことが考えることを放棄することに繋がっていくのです。今日ここに来た人も含めてのざんねんな出産、しあわせな臨終ということが一体なんなのかということを考えるきっかけになって欲しいと思いました。

[質疑応答]

質問者A:テーマを初めて聞いた時、重くて怖かったのですが今日のトークを聞いて見たくなりました。

ヴィヴィアン:チラシをあげられない人が居ました。これくらい長い時間話せば分かってもらえるのだと思いますが、チラシを渡すたびにこんなに話せないので。笑

有賀:今回の作品は、震災よりも前に作ろうとしていて、その準備をしている時に震災が起きました。もうこの作品は作れないし作らない、と当時は思ったのですが、しばらくしてやらないとダメだなと思いはじめました。僕には妹がいて、その娘(姪っ子)は先天的な重い病気を患って産まれてきました。ながい治療や大きな手術を経て、現在は元気に小学校に通っています。Facebookなどで「こういう展覧会やりますよ」っていうのを告知する時に、妹がどう思うのか気になりました。今回の展覧会も来られませんでしたが「行きたい」と言っていました。身近にそういう存在がいるので感想を聞いてみたいと思いました。

丹下:非常に複雑ですよね。僕は障害者支援の活動をしていましたが、相手が人間なので中にいろんな人が居ます。重度から軽度までいろんな状態の人が居るので、ひとくくりにして話が出来ないですね。それぞれの立場に立って話すなんてことも出来なくて、そんなに簡単な話ではない。ただ身内がっていう話であれば妹さんとも姪っ子さんとも長く過ごしているでしょうから、そこに関しては理解されるのかなとは思いますが、そうでない人たちに対しては非常に難しい問題がありますよね。

質問者B:出産した・するその瞬間の「ざんねん」さだけが取り上げられているような気がするんですけれども、出産して産まれた子どもが実際に成長して犯罪を犯したり人を殺したりというのも「ざんねん」な出産に繋がるのではないかなと思いました。僕も「ざんねん」な出産というテーマが与えられると、奇形の子や五体不満足な子が産まれる心配をするんですが、将来性の面での時間の経過によって現れる「ざんねん」さみたいなものも描いて欲しかった。ということと、「しあわせな臨終」というテーマに帰結するために、林さんの作品はストーリーとして「しあわせ」な部分が見えてきたのですが、有賀くんとヴィヴィアンさんはどういうものが「しあわせな臨終」として帰結すると思いますか?

有賀:出産担当だと思って作ったのです。笑。臨終については扱っていなくて。思うのは、このまま行けば延命治療や技術が進歩していけば、「死なない/死ねない」という人類像みたいなのが想像できるのです。その時に初めて「死ぬ」ということが「しあわせ」であると思う人が多数派になると思います。

ヴィヴィアン:私も臨終は扱っていないのですけれども。周りの人間はいっぱい死んでいますが、私は「死ぬ」と思ったことがないのです。おかしいですかね。笑。そういえば自分って「死ぬ」かもと思ったことないかもしれません。しあわせな人間ですね。笑。女装で死にたいかな。。女装は私の作品なんですよ。毎日毎日、移動ギャラリーみたいなもので、一人展覧会なのですけれども。さっきも言ったのですが、3.11とか12の日に私が何をやらなきゃいけないかなと考えたところ、それは女装なんですよね。これを女装って言うのか分かりませんけれども、自分の死を考えるとそう思いますね。あと幽霊になりたいですよね。幽霊になって人を驚かしたい。笑

丹下:もう大丈夫です。笑

質問者C:影響を与えられたアーティストはいるんですか?考えや作品制作においての。

丹下:ヴィヴィアンさんはダイアン・アーバスが主題になっているので、お二人(有賀・林)はいかがですか?

有賀:いろんなアーティストからほどよく影響を受けていますが「この人です!」という一人のアーティストはいません。それよりも、作品を制作する人ではなくて、自分が育ってきた環境や経験などが、僕の作品にはより影響していると思います。でも、好きな映画とかはあって、《悪魔のいけにえ》は好きです。あとSFが好きですね。

林:あまりアーティストとかは知らなくて、小さいときから変装やメイクはしていて、今やっていることはその延長線上できていますが、最近影響を受けたかなと思うのは有賀くんの作品です。グロい感じというか、危なそうな感じとかですね。

質問者D:私は三人の母親ですが、妊娠中は楽しくて仕方がありませんでした。三人とも自然分娩で予定日に産みましたが、三人目の子の時は、病院に着いてすぐに出産しました。お医者さんは期待をしてて、立ち産を望んでいて。「研修医の子を呼んで良い?」ってなり、結局ギャラリーが沢山居て、2人の子どもも、家族にも囲まれて産むことが出来ました。家族に見守られ、他人に囲まれて産みました。

丹下:最初にしあわせで・楽しくてとおっしゃられていましたが、メカニズムとして、今までパンキッシュでグロいものが好きだった子が出産した途端に急にフリルの付いたものを作り出すというのを聞いたことがあって、しあわせ感や多幸感に包まれつ、ただ産後うつなどもありますが、そうゆうメカニズムがあることを多くの人から聞きます。それは凄く面白いなと思っていて。

質問者D:私も産後にブルーというものにはなりました。今はあっという間に過ぎたのであの時は無我夢中でした。毎日、死というものは頭にあります。後悔しないように子どもたちにも生きて欲しいなと思います。

丹下:僕は子どもが産まれてから死というものを強く意識し始めました。それは同じですね。それまでは死というものがどうゆうものなのかはっきり分からなくて、頭の中では分かっているのですが。プログラムかもしれないのですが、ある種の役割を終えたような気がしてます。

質問者D:この展覧会も始まったばかりの時にタイトルが気になって、子どもを連れて来ました。ヴィヴィアンさんの作品の裏側の作品も子どもが見つけて、しっかり見て感じていましたよ。

ヴィヴィアン:びっくりしてました?

質問者D:いや、わりと淡々としてましたね。怖いということも感じていました。

丹下:僕はさっき有賀さんが言っていた死ぬときの感じが頭の中でリフレインしていて面白いなと思ったのですが、「あぁ、やっと死ねる」っていう感覚は未来の話ではなくて、多分今もそんな感じなのではないかなと思っていて。どこで死ぬのを決断するかという状況に高齢者の人たちはみんななっているはずだと思います。延命治療どんどん進んでいくし、余計に死ねなくなる、どんどん死ねなくなるのも事実だと思います。昔から不老不死を望むというのがどんどん人工的なものの象徴としてありますけど、なぜ望んでしまうのか?ということがあるような気がして、それに対して自殺ってどうなのか、自殺のことを「ざんねん」だと言う人も居ますが、いじめで自殺したとかは別で、実は50代60代の男性が自殺するのが非常に多いのです、日本人には。もちろん仕事とかいろんなことがあるのでしょうけれども、そこで死を選択していくという感じが、永遠の命に対しての選択のようなものなのかと思いました。プラスして言うと僕は食物連鎖の中で死にたいと思っています。何かに食べられて死にたいと思っていて、それを最終的に作品に出来ないかなと思っています。そうでないカタチの死に方が多すぎる。自然のサイクルの中に自分が入っているのかどうかということを確かめたい気がするのですが。自分の死に方と死に際を選択できないのではないかということが、それを縛っているのがいろいろな都合、現代社会の構造の中の都合とそこに付いているモラルのような部分もあるだろうなと思います。

 

有賀慎吾 Aruga Shingo

1983 年長野県生まれ。2009 年武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業、東京藝術大学美術研究科美術専攻博士課程在籍。黄色と黒の2色を基調とし、平面・立体・映像・インスタレーションなど多角的な面から作品を構成。恐怖や目を塞ぎたくなるようなモチーフを、繊細で美しくもある表現で提示する。主な個展に2010年「The Yellow Show」(Art Center Ongoing、東京)主なグループ展に2011年「THE COLOR OF FUTURE” たぐりよせるまなざし “」(Turner Gallery、東京)、「小豆島 AIR アートプロジェクト Story of the Island展」、「一枚の絵の力 – Arts Action 3331」(3331 Arts Chiyoda)など多数。

 

林千歩 Hayashi Chiho

1988年オレゴン生まれ。2013年東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修了、同大学博士課程在籍。映像作品を中心に、インスタレーション・写真・立体・平面・パフォーマンスなどで表現を行なう。全て母と共に制作した衣装と、過度なメイクを纏い、彼女自身が何者 かに変装する。時に鑑賞者をも巻き込み、そこで生まれる何かを居合わせた人たちに問いかける。 2013年「ART PROJECT OITA 大分現代美術館 循環展」、「瀬戸内国際芸術祭」(小豆島)、「シブカル祭」(渋谷PARCO)、「Identity IX 展」(nca | nichido contemporary art、東京)、「会田誠展: 天才でごめんなさい」にてパフォーマンス(森美術館)、2012年個展(Art Center Ongoing、東京)など多数。

 

ヴィヴィアン佐藤 Vivienne Sato

美術家、非建築家、映画批評家、プロモーター、ドラァグクイーンと様々な顔を持つ。ジャンルを横断していき独自の見解で「現代」を乗りこなす。作品製作のみならず、「同時代性」をキーワードに映画や演劇、ライヴなどを単なる受け取る側としてではないプロモーション活動も展開。バーニーズ NY、ヴーヴクリコ、LANVIN、MILKFED などのディスプレイや作品を提供。野宮真貴や故山口小夜子、故野田凪、古澤巌など個性派美学を持つ アーティストとの仕事も多い。2012 年から vantan バンタンデザイン研究所で教鞭を持つ。奇才。

 

丹下紘希 Tange kouki
映像監督/アートディレクター/人間
1968年生まれ。東京造形大学卒。舞踏家大野一雄に師事。
映像制作会社イエローブレイン並びにデザイン会社マバタキ製作所代表。
作品集TANGE KOUKI MUSIC VIDEO COLLECTIONを発表するなど数々のミュージックビデオ、ジャケットデザイン、本の装丁、障がい者の就労支援啓発やアートイベントのプロデュースなどを手掛けてきた。反原発を宣言し、2012年度で経営していた会社を一時休止。原発事故を経てNOddiNという芸術運動を仲間と立ち上げ、参加している。

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